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信心のすすめ

日々の祈り──信心のすすめ(26)

 「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ。私があなたがたを立てたのは、あなたがたが行って実を結び、その実を残すためであり、私の名によってあなたがたが父に求めるものは、すべて父がくださる」(ヨハネ 15,15)

Ⅰ 主は、すべての人が救われることを望んでおられます。そのために、祈る恵みをすべての人に与えられます。祈りは、おとなになって、救いを得るために、実際に必要な手段です。これは教会の教えであり、私たちは、神の可能なおきてを守らなければなりません。困難に際して、私たちは祈らなければなりません。神の恵みにより、そこで、すべてのことは可能になります。聖アウグスティヌスは「いくつかのおきては守りやすいものです。それらを守らなければならない、他のおきてはむずかしいものですが、祈らなければならない、すると、われわれはそれらをも守ることができるであろう」と言っています。
聖アルウォンソは次のように書いています。「おきては、少なくとも祈りという偉大な手段によって、すべてを守ることができる」と。英知と善良さにみちている神は、私たちが運べないような重荷を私たちの背におわせることはありません。むしろ、霊魂が豊かに祈りをするとき、神は恵みにみたしてくださいます。そして、神の荷がこころよく、その重荷は軽いことを体験させてくださいます。

Ⅱ 聖パウロは私たちに、「神は真実ですから、あなたがたの力以上のこころみにはおあわせになりません。あなたがたがこころみに耐え、それに打ちかつ方法をも備えてくださるでしょう」(Ⅰコリント 10,13)と注意をうながしています。聖トマスは聖アルウォンソとともに、神の忠実は、まさに、こころみにあって、ご自分のところに走りよる人を助けることである、と言っています。実に、「あなたの右のほほを打つ人に左のほほも向け、私たちを迫害する人に善をほどこし、完全な節制を守り、悪いしかも不正な長上に従え」という神のおきてを、祈りなしに守ることはむずかしいでしょう。しかしイエスは、ゲッセマニの園で祈られましたし、聖ステファノ、聖ロレンソ、また聖人たちも祈りました。また、多くの善良な霊魂も毎日祈っています。彼らは、人間の力にはできないしかも英雄的なわざを遂行しましたし、遂行しています。
 神はそのことをすべての人に命じました。ですから、聖ヨハネ・クリゾストモは次のように言うのです。「悪魔を信じる人はだれも弁解の予知はない。なぜなら、祈りを続けられたのに、やめてしまったからである」と。聖アウグスティヌスはさらに次のようにつけ加えています。「あなたがよく理解できなかったことを知らないことはあやまちではない。しかし、祈りをなまけることはあやまちである」と。「たたき、願い求めよ」(マタイ7,7)という神の命令は何を意味するのでしょうか。もし私たちがそれをのぞむならば、そのことをいつも主に求めながら、神のおきてを守れるということは確かなことです。
普通の生活のために、主は私たちに食卓を準備なさいませんが、食卓を準備するために、あらゆる手段を私たちに提供します。このように、超自然的な生活のために、主は、私たちが心をこるめて用いなければならないあらゆる手段、すなわち、秘跡、準秘跡、黙想、ロザリオ、射祷などを私たちに提供してくださるのです。

Ⅲ 主よ、祈りというこの偉大なたまもののゆえに、あなたに感謝いたします。私は、「あなたの神に希望せよ。すべての民よ、主に希望せよ。主を恐れる者よ、主に希望せよ。なぜなら、私に希望する者を、私は解放し、守り、栄光を授けるからである。あなたがたに与えられる恵みを希望せよ。希望によって彼らは救われた。神の約束には、何らの疑いもない」というあなたのことばをわかります。

・糾明───祈りによって主が私にいつも与えてくださるお恵みに答えているだろうか。たえず祈っているだろうか。それとも、困難に際しての悲しみにひたってしまうのだろうか。私の失敗をどのように説明できよう。
・決心───もし私がのぞむなら、すべての必要な恵みを受け、自分が救われることもできることは確かである。私はこの真理をたえず心にとめておきたい。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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