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日本カトリック平和旬間(8月6日〜15日)

2024年平和旬間  日本カトリック司教協議会会長談話「無関心はいのちを奪います」

 教皇ヨハネ・パウロ2世は、1981年に来日し、被爆地の広島を訪れたときに、「平和アピール」を打ち出しました。「戦争は人間のしわざである」ことを明言し、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことである」と訴えました。「日本カトリック平和旬間」は、ヨハネ・パウロ2世のこの呼びかけにこたえて定められたもので、翌1982年から毎年おこなわれています。

 平和旬間は、広島に原爆が投下された8月6日から始まり、長崎に原爆が落とされた9日を経て、終戦の日である8月15日まで続きます。この間、広島、長崎は言うまでもなく、各地で平和のためのさまざまな集いがおこなわれます。

 平和旬間は、典礼暦のうえでも、平和について考えさせてくれるような重要な祝祭日が並びます。まず、8月6日は「主の変容」の祝日です。この変容の出来事において、神はイエスがご自分の愛する子であることをお示しになり、十字架に向かって歩むこのイエスにこそ聞き従うよう、わたしたちを招かれます。変容のとき、目に見える形で現れたイエスの栄光は、十字架上では目に見える形で輝いてはくれません。

 しかし、神の真の栄光は十字架上で苦しみながら死んでいくこのイエスのうちにこそ示されているのです。8月8日は、聖ドミニコ司祭の記念日です。聖ドミニコは、異端が渦巻く当時のキリスト教世界の中で、一人でも多くの人を誤謬から救おうと願い、そのために福音を熱心に告げ知らせる修道会を創立しました。

 また、8月11日は聖クララおとめの記念日です。聖クララは、聖ドミニコと同時代に生きた女性で、アシジの聖フランシスコを支え、その霊性を共有しました。聖フランシスコが「平和の聖人」であることはよく知られています。

 さらに、8月9日は、聖テレサ・ベネディクタ(十字架の)おとめ殉教者(エディット・シュタイン)の記念日です。彼女はカルメル会修道女で、ユダヤ人であったため、ナチス・ドイツに捕らえられ、アウシュビッツの強制収容所で殺されました。まさに第二次世界大戦において殉教した現代の聖人です。

 8月14日に記念される聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者も、アウシュビッツで殉教した聖人です。処刑されようとしたあるユダヤ人の身代わりとなって死んだコルベ神父のエピソードはあまりにも有名です。また、この聖人は、日本でも宣教活動をしています。

 8月10日は、聖ラウレンチオ助祭殉教者の祝日です。聖ラウレンチオは、ローマ皇帝の迫害によって258年に殉教したローマ教会の助祭です。8月13日に記念される聖ポンチアノ教皇と聖ヒッポリト司祭殉教者も、同じ3世紀に、ローマ皇帝による迫害で殉教した聖人です。

 そして、8月12日に記念される聖ヨハンナ・フランシスカ・ド・シャンタル修道女は、16世紀から17世紀にかけて生きた聖人で、特に、貧しい人々や病人たちを保護し、助けました。

 そして、最終日にあたる8月15日は、聖母の被昇天の祭日です。この神秘は、マリア自身の神秘であると同時に、教会が終わりのときにどのような救いにあずかるかを示す神秘でもあります。わたしたちの平和がキリストの死と復活によって実現したこと、だから、キリストに支えられて、わたしたちは各々このキリストの平和の完成のために尽力するよう招かれていること、しかし、真の平和はキリストの救いが完全に実現する世の終わりにこそ完成されるということを思いめぐらすためにふさわしい日と言えるでしょう。

 このように、日本カトリック平和旬間は、典礼暦をとおしても、平和について、さまざまな視点から見つめることができる豊かな期間なのです。

 それでは、聖書の中の、そしてキリスト教における「平和」とはどのような意味なのでしょうか。それは、単に戦争のない状態を意味するものではありません。次のパウロの言葉は、平和がどのようなものであるのか示唆しています。「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(一コリント14・33)。

 これは、パウロが集会において秩序と順番が保たれるように命じた際に、その根拠として述べている言葉です。ここでは、「平和」の反対語は「争い」や「戦争」ではなく、「無秩序」と言われています。「無秩序」とは、「混沌」、「空虚」、「意味のないこと」、「中身のないこと」といった意味です。したがって、「平和」とは、中身があって、しかも秩序正しく、その中でそれぞれの存在の持つ意味が完全に実現されている状態と言えるでしょう。

 この意味を深めるために、創世記1~3章を見てみましょう。創世記1・1では、創造の前の状態が、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と記されています。つまり、地は存在していたものの、すべてが水に覆われていて、意味のないものであったということです。

 これに対して、神の創造のわざは、区分をすることによってそれぞれの存在に意味と秩序を与えるはたらきとして描写されています。例えば、神は光を造ることによって、光と闇を分けます。こうして、光には昼としての役割が、闇には夜としての役割が与えられます(1・3-5)。それまで混沌に過ぎず、意味のない存在であった闇も、光と区分されることによって、夜という意味が与えられたのです。このように区分がなされることで、それぞれに他と異なる特性が与えられ、異なる存在が結び合わされることで、全体に秩序と意味が生まれていきます。

 人間も男と女という異なる存在として創造されます。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1・27)。ここでは、人が「神のかたどり」であることと、「男と女」であることとが並行関係に置かれています。

 人間には、「生き物をすべて支配せよ」という務めが与えられますが、それは支配者として何でもおこなってよいという意味ではなく、「神のかたどり」として、「男と女」という異なる存在のかかわりとして創造された者として、神が定めてくださった秩序、かかわりの中で、すべての被造物が与えられた固有の意味合いを完全に輝かせることができるように(1・28「産めよ、増えよ、地に満ちよ」)はたらかなければならないという意味です。言い方を変えれば、「平和を実現する人々」(マタイ5・9)となるようにという意味なのです。

 このことは、創世記2章でも強調されています。人間の目的が「土を耕」(2・5、15)して植物を育て、エデンの園を「守る」(2・15)ことであると記されているからです。また人間に関しては、「人が独りでいるのは良くない」(2・18)と言われ、人間が互いに助け合う者として男と女とに造られたこと、両者は互いに異なる存在であると同時に「一体」(2・24)の存在として生きるよう創造されたことが述べられています。神の創造の計画は、異なるもの同士が互いのいのちを成長させるために助け合い、それぞれの固有性を輝かせながら一致することにあるということを、この章は示しています。

 しかし、この創造の計画は、人間の罪によって崩れていきました。男と女は、もはや助け合う者ではなく、自分を正当化するために相手をおとしめる者、欲求に任せて相手を自分に従わせようとする者となったのです(3・16)。こうして、創造のときに与えられた神の計画の実現、すなわち被造物全体の平和の実現は、終わりのときの救いの恵みとして待望されるようになります。

 わたしたちは、この平和がキリストによって実現したと信じています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2・14)。しかし、同時にキリストは言われます。「わたしはこれ(=平和)を、世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14・27)。聖書は、平和の実現をキリストの復活よりはむしろその十字架上の死に結びつけています。キリストは、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソ2・15-16)。

 平和は、政治的圧力によって実現するわけでも、まして力や武力によって実現するわけでもありません。それは、人々の痛みや苦しみ、罪をみずから担うことによって実現するのです。かかわりの中で相手の違いを尊重し、相手を助け、相手を完成させるという地道な歩みによって平和は実現するのです。

 こうして実現された平和を、パウロは「キリストのからだ」の比喩をもって説明しています(一コリント12・12-31)。「からだ」は、キリストによって一つですが(12・12)、多くの部分からなっています(12・14)。わたしたちは、それぞれ異なる者であり、異なる務めをゆだねられているのであり、したがって、どの部分も、そしてどの務めも、神の視点では欠かすことができない大切なものなのです(12・18「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」、12・22「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」)。

 そして、それぞれのはたらきが異なるからこそ、全体としてからだが機能するのです(12・19「すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょう」)。だから、各部分の違いや固有性を互いに尊重しなければ、からだは機能しません。自分と異なる他者が自分に同化することを強要し、自分に従わせようとすると、全体は機能しなくなります。

 しかし、各部分の固有性は唯一のからだの一部であるからこそ、意味があるのです。各部分がそれぞれの優位を競い合い、自己主張を繰り広げていても、からだは機能しないのです。平和とは、すべての部分が唯一のからだをとおして自分と結ばれていることを意識しながら、それぞれの部分がからだ全体のはたらきの中で、神から与えられたかけがえのない務めを全面的に生きている状態のことです。

 「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(12・25-26)。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによって、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられていくのです」(エフェソ4・16)。

 このような平和の実現をわたしたちは目指しています。たしかにそれは時間のかかる歩みでしょう。現実の世界に目を向けると、それは実現不可能なことのようにも感じられることでしょう。しかし、わたしたちはキリストの十字架の力によってこの平和が実現しうると固く信じています。この信仰に力づけられて、わたしたちも自分自身の十字架を担って、平和のために尽力したいと思います。

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澤田豊成神父

聖パウロ修道会司祭。1965年、東京都目黒区生まれ。1996年、司祭叙階。教皇庁立グレゴリアン大学神学科修士課程で聖書神学を専攻、神学修士号取得。現在は編集をとおしての宣教に従事。東京カトリック神学院、聖アントニオ神学院講師。

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