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信心のすすめ

祈り──信心のすすめ(27)

 「私たちは神が、そのみ旨にしたがって、願うことを必ず聞き入れてくださると、確信しています。そして、神が、すべての願いを聞き入れてくださることを知るなら、また、願ったことが受けられることもわかります」(Ⅰヨハネ 5,14-15)

Ⅰ 祈りは、神の栄光と人々の平和を得るための偉大な手段です。祈りは、創造と救済、人間の成果における神の二つの目的です。それらは、理性的な全被造物がたえず、あらゆる行為において持たなければならない目標でもあります。祈りは、神ご自身のぞんでおられることを遂行するために、神と人間の協力であり、神が使うことをおのぞみになっておられる手段になっているものです。しかも神は私たちに先だち、また私たちにまさって、私たちがよく祈るならば、私たちの祈りを聞き入れようとおのぞみになっておられるのです。イエス・キリストは、祈るに際し、おん父の心と考えの中に入って行きました。イエス・キリストのみ名において祈るということは、その嘆願に私たちが実際に一致し、彼において、彼とともに、彼によって祈ることを意味します。聖アウグスティヌスは次のように言っています。「永遠の救いに反することを願うとき、救い主のみ名によっていのるのではない。キリストが私たちの祈りをご自分の祈りにすることが常に必要なのだ。そして彼は、もしわれわれが祈ることが神の栄光と人々の平和のためであるならば、ご自分のものとなさるのである。それゆえ、悪い事柄、すなわち神が与えることができず、また与えたくもないものを願う人は、祈らないのである」と。

Ⅱ 主は言われます。「叫び、私を呼べば、私はあなたに願いを聞こう」(エレミア33,3)。「私を呼べば、あなたを解放しよう」(詩編 49,15)「願え、そうすれば与えられよう。捜せ、そうすれば見い出すであろう。叩け、そうすれば開かれるであろう」(マタイ7,7)。「求める人には与えられる」(マタイ7,8)。「求める人は受け、捜す人は見い出し、叩く人は開かれる」(ルカ 11,10)「父に求めるところは何でも与えられる」(マルコ11,24)。「私の名において何かを求めるなら、私がはからおう」(ヨハネ14,14)。「まことにわたし言う。あなたがたが父に求めることは、何でも、私の名によって与えてくださる」(ヨハネ16,23)。「私の名によってあなたがたが父に求めるものは、すべて父がくださる」(ヨハネ15,16)。
 エジプトで、ヘブライ人たちが奴隷であった時、祈り、そして解放されました。モーセはアマレク人との戦いにおいて、戦勝を祈りましたが、聞き入れられました。ヨスエ、ユジット、エステルは祈り、そして聞き入れられました。福音において、十人の癩病人、生まれながらの盲人、出血症の女、カナアンの女、百夫長らは祈りました。よく行なわれたすべての祈りは、イエス・キリストに喜ばれました。
 祈る人は、聖霊において、イエス・キリストとともに願うのです。「聖霊自身、言うべからざる嘆きをもって、私たちのために祈る」(Exauditus est pro Sua reverentia)。私たちは祈るとき、神のみ旨自体の中に入りこむのです。お恵みを与え、祈らせるのは、神なのです。したがって、どうして私たちの祈りが聞き入れられないことがあるでしょうか。聖人たちは、彼らが望むものを得たのです。「祈りより、あらゆる善が得られ、かつあらゆる悪が遠ざけられる」(聖ボナヴェントゥーラ)のです。

Ⅲ テルトゥリアーヌスの次のことばを黙想します。「祈る人は神は名にをこばまれるのだろうか。ただ、祈りだけが神に勝つのである。イエス・キリストは祈りに、全能を付与された。それゆえ、祈りは弱い者を強め、病者を治し、悪魔を追い払い、潔白な人を解放する。祈りは罪を消し、誘惑を追い払い、苦しめる者を慰め、迫害を終わらせ、寛大な者を支え、旅行者をみちびき、波を静まらせ、盗みをやめさせ、貧しい者をやしない、富める者を導き、たおれる者をたち上がらせ、たおれつつある者を支え、正しい人を固める」。こうして、ただ一つのものである祈りが、すべてのことをできるのです。

・糾明───どのくらい祈っているだろうか。私がする念祷もしくは口祷の祈りに比例した善を持っているだろうか。
・決心───毎日、私の祈りを完全なものにするよう、つとめよう。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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