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信心のすすめ

イエス・キリストの使徒職──信心のすすめ(2)

 イエス・キリストの熱心は、ご自分のおん父に対する大いなる愛から生まれていました。「愛さない人は、熱心に燃えたっていない」のです。おん父のみ名が聖とされるようにという熱烈なのぞみは、その王国に定着し、天においても地においても、その意志が行なわれているのです。

 イエス・キリストは、霊魂を愛していました。「私を愛し、私のために、ご自分を渡された」のです。その心は、二つのほのおにもえ立っていました。すなわち、「その心は、人人を非常に愛された。しかし人から何も報われなかった」のです。

 イエス・キリストの熱心さは、みちあふれた、完全な、普遍的なものでした。私は道であり、真理であり、生命である、と彼は言われました。

私は道である

 イエス・キリストは、その私生活と公生活、苦しみ、栄光、聖体の生活において、聖なる模範をもって、私たちに道を示してくださいました。「私は、あなたがたに模範を与えた」。すなわち、模範の使徒職を与えてくださいました。イエス・キリストは、子どもであり、完全な青年でした。完全な家庭の子どもであり、大工であり、完全な市民でありました。また、完全な修道者であり、司祭、教師、完全ないけにえでありました。

 人々は、神の子であり、天父を模倣しなければなりません。「至愛な子として、神を模倣しなさい」。しかし、人間にとって、神の聖性を理解し、生き写しとすることは、非常に困難なことでした。神は純粋霊であり、見えない存在だからであります。人類は、悪徳と無秩序の淵におちこんでいました。そこで、罪のほかはすべて私たちと似た者となって、完全な神であり、完全な人間であるイエス・キリストが来られました。すべてにおいて、彼は、模倣可能者となられました……「私に学べ」と。たとえ人間が、義の道を踏みあやまったとしても、イエス・キリストは、再びきずきあげてくれました……彼の歩みにならい、彼を観想し、そのあとに従うことは、やがて信者たちにとって模範となるのです。聖パウロは言いました。「私がイエス・キリストに倣ったように私に倣え」と。各人は、よい模範の使徒職を実行することができるのです。

私は真理である

 人祖がだまされたからというものは、人間は、事実、教えと倫理において、誤りの奈落の淵におちこんでいました。しかし、イエス・キリストには、英知と知識のあらゆる宝があります。それゆえ、彼は、完全なふさわしさをもって語っていました。彼は、人間の意志に対して完全な権利を持っていました。ことばによって、私たちを救うことは、主の心にかなったのです。彼は力と愛をもって、教えていました。会堂で教え、み国の福音をのべながら、全ガリラヤをへめぐっていました。人々は、「この人のように語って人はだれもいない」といっておどろいていたのです。人々は食事することさえ忘れて彼に従い、彼のみことばに深く打たれました。福音書には「群衆は、神のみことばを聞くために、イエスについて行った」としるされています。地上を去るにあたって、イエスは、「全世界に行って福音を述べ伝えよ」という命令を弟子たちに、与えました。

私は生命である

 超自然的生命は、原罪によって失われました。神のおん子は、託身されました。「恩寵と真理は、イエス・キリストによってなった」のです。彼の死によって、私たちに生命を与えました。「私は、いのちを与え、そして、豊かに与えるために来た」。

 彼は、この生命が、洗礼、堅信、聖体などによって、教会において、私たちに与えられるようにとお定めになりました……「洗礼を受けよ……だれの罪を赦そうとも、その罪は赦される……私の肉を食べ、私の血を飲む人は、永遠の生命を受ける」と。

 常に、秘跡において、イエス・キリストは第一執行者として行ない、司祭はそのわざに、参与するのです。超自然的生命とは、私たちの中に生きているキリストです。「私に生きているのはキリストである」。「彼は私たちの中におられ、私たちは彼の中にいる」のです。神を人々に与えることは、最高の使徒職です。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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