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信心のすすめ

ミサ聖祭〜その本質──信心のすすめ(29)

 「太陽ののぼるところまで、諸民族と諸国の間で、私の名は偉大であるから、あなたがたの手になるささげものを受けない。あらゆるところで、いけにえがささげられ、清いホスチアが私の名のためにささげられる。名私の名は諸国の間で偉大だからである、と万軍の主は言われた」

Ⅰ ミサ聖祭は十字架のいけにえと同じものです。十字架のいけにえと違うのは、ミサ聖祭は血を流すことのないいけにえでありますが、十字架上では血が流されました。実に、「ミサ聖祭には、たとえ、いけにえの方法は異なっているにせよ、司祭を通し、行なわれるのは、同一のホスチア、主要な同一の奉献者、すなわち、イエス・キリストがおられる」のです。

 同じホスチアというのは、神であり人であるイエス・キリストです。実に、聖別のことばにより、イエス・キリストは、死の外的なかたちとたちばにたたれるのです。すなわち、一方ではからだとなり、他方ではおん血にかわるのです。主役を演じる司祭は、同じイエス・キリストです。彼は愛にもえたち、従順によって十字架の上で苦しまれ、私たちのために、ご自分をおん父にささげました。

 こうして、司祭といけにえは、ただひとりで同じお方であります。彼はご自分の役務者たちに、偉大な行為をご自分の名と、そのペルソナにおいて行なうよう命じました。そして、イエス・キリストは、ミサごとに、ご自分の意志による特殊な行為をもって、おん父にご自分をおささげになります。そのご意志とは、十字架上で持っていたと同じのぞみ、つまり、神の栄光と人々の救いのためという熱烈なのぞみによって、おん父におささげになるのです。

Ⅱ 両者の相違は、付随的なものです。すなわち、十字架上では、そのいけにえは死すべきものであり、苦しみをしのがれ、見えるものでありました。ミサにおいては、秘跡的、不死、苦しみをしのがれず、見えない状態のうちに現存しているのです。

 十字架上では、唯一の司祭はイエス・キリストです。ミサにおいてはイエス・キリストは、教会がこの職務のために叙階し、それによってミサ聖祭をささげるよう使命を与えられた司祭を、ご自分の見える役務者として立てられましたが、イエス・キリストが主要な司祭です。

 十字架のいけにえは、絶対的、いな、絶対的な唯一のいけにえであります。たんなる象徴、記念、他のいけにえの代用ではありません。むしろ、ミサのいけにえは、現在の罪をあがなうために、世の終わりまで続けられる十字架のいけにえの継続です。十字架のいけにえは、ただ一回だけささげられましたが、ミサは毎日、しかも多くのところでささげられます。

 十字架上では、救いが完成されましたが、ミサにおいては、その救いが適応されるのです。

Ⅲ 救い主イエス・キリスト、あなたは、おん父をなだめる無限に価値ある清いいけにえです。かつてのいけにえは、罪の完全なつぐないをおん父に与えられることはできませんでしたし、殉教者たちのあらゆる苦しみ、徳行、童貞者、証聖者、使徒……たちのあらゆる痛悔も、そのつぐないにかわることはできませんでした。ただあなたの無限に価値あるいけにえだけが、豊かなあがないをもたらし、いかに重くまた数多くの罪でもおおうことができました。「イエス・キリストのおん血が、私たちの心を、いかほど清めてくれるだろうか」(ヘブライ9,14)イエスよ、感謝いたします。

・糾明───ミサの真の意味をわきまえているだろうか。私の感情、嘆願、意向をイエスとともに、祭壇上でいけにえとしているだろうか。聖なるいけにえとともに、小さないけにえとして、私の罪とすべての人の罪のために、私自身をささげているだろうか。
・決心───生きた喜びをもってミサ聖祭にあずかろう。名、ミサにおいて、神の正義がみたされるからである。共済者として、人々の救いに協力しよう。その心をおん血とおん傷をおん父にささげるため、天上の永遠の司祭イエス・キリストと一致しよう。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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