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 彼の偉大な根本原理は次のことであった。すなわち、「すべてにおいて、すべてにわたって、神のみむねを行なうこと」。使徒職における彼の指針は、「一般に、新奇なことを求めないこと」ということであった。また、「私たちは最先端の仕事をするためにあるのではありません。その仕事は教会の中で、専門家がやるのであって、私たちは専門家ではありません。私たちは確実な道の真ん中を歩かなければなりません。そして議論のない真理を、すべての人に知らせなければなりません」と。

 しかしながら、あらゆることにおいて、彼は第二バチカン公会議がすすめている考えに先立って、いろいろのことを教えている。霊的生活における彼の原理は、「神をはずかしめ、恩寵と神のみむねを知ることを妨げる罪を取り除くこと。多くの祈りによって、神のみむねを知ったなら、それを実現するための心構え、天国への強いあこがれ、またみ摂理に対する絶対的な信頼」ということであった。彼は非常に厳格で、要求の多い人でもあった。

 しかし、霊的指導と告解においては、非常にやさしい父であり、よき理解者であった。アルベリオーネ神父の霊性は、まさにキリスト中心主義であった。彼は、道・真理・生命である聖師イエスの中に、すべてを見ていたし、聖師の目ですべてをながめていた。聖師のほまれのため、すべての司祭は「先生」と呼ばれるべきであった。なぜなら、聖師イエスという偉大な模範に従って、先生たちは形成されていなければならないからである。実に、しばらくの間、司祭たちは「この先生」「あの先生」というふうに呼ばれていたからである。そしてアルベリオーネ神父はプリモ・マエストロ(第一の先生)と呼ばれた。なぜなら、聖務において、すべての人の中で第一人者であったし、その模範に一番近く、もっとも忠実であったからである。司祭たちへの「先生」という呼び掛けは、もはや存在しなくなったが、「プリモ・マエストロ」だけは残った。

 聖師イエスに対する信心と平行して、アルベリオーネ神父は、使徒の女王マリアと使徒聖パウロに対する特別な信心をつちかっていた。彼は聖パウロから、その精神と熱誠と休むことのない活動とを受けついだ。私はまだ神学生だったとき、使徒の女王と使徒聖パウロの祝日は、第一のミサの間の聖歌、荘厳ミサ、荘厳晩歌、庭や印刷工場のサロンを通ってなされる行列など、実に荘厳に祝われたものだった。プリモ・マエストロは、われわれの日常生活を行なっている環境を祝福し、聖化するために聖母マリアと聖パウロが通ることをのぞんでいたのである。当然、あらゆるところまで通ることは不可能であった。

 そこで、行列が通るところをしつらえ、花でかざった小さな机の上に、われわれは勉強の本や組版道具、台所のなべなどを並べたものである。しかし、われわれにとって一番すばらしい時間は、夕食後であった。われわれはみんな聖母像あるいは聖パウロ像のまわりに集まり、祈り、笑い、声をはりあげた歌い、花火をあげたりした。プリモ・マエストロは、そのすばらしい時に、われわれの間にあったし、われわれの祈りを指導し、歌うべき聖歌をすすめ、われわれの喜びを高めてくれた。

 荘厳に行なわれるグレゴリアン聖歌とともに典礼祭儀をよくするようにつとめた。そのためアルベリオーネ神父は、私がまだ神学生だった頃、グレゴリアン聖歌を教える任務を私に与えた。そして、私の講義に重要性を与えるために、しばしば彼自身そこに参加した。そして、それはまだ私の教えかたが、彼のように完全であることをのぞんでいるということを示すためでもあった。その当時、われわれの聖堂の歌は、無秩序きわまるものだった。しかし、それも徐々に改善されていった。実際、われわれの神学生たちのグループは、教区の神学生が不在のとき、司教聖堂で歌ってくれるようにと要請された。司教聖堂付オルガニストは、オルガン伴奏をしばしば中断した。私は、彼がどれほど厳格な人であるかをよく知っていたので、ある日、どうして伴奏をやめるのかとたずねてみた。それは、われわれの歌い方がまずいためではないかと恐れたからである。しかし彼は私に「私が伴奏をやめるのは、あなたがたの歌を聞きたいからです」と答えた。

 アルベリオーネ神父の説教は、単純であった。学校でもそうであったが、彼はもっとも明白な原理に要約したが、しかもそれはいつも納得のいくものであった。というのは、言っていることは、深い納得の結果であり、自然と心からわき出るものだとの印象を与えていたからである。他方、彼があつかう命題は、結局、いつも同じであった。すなわち、神の栄光、神のみむね、マリアへの信心、罪に対する痛悔、罪からの離脱、教会と教皇に対する忠実、使徒職とあらゆる使徒職の源泉としての聖書に対する愛、などがそれである。

 私は1949年、彼がはじめて日本を訪問したときに行なったいくつかの説教の要点をいまだに手もとに持っている。次に紹介するのは、その中のいくつかである。

 「修道者は、唯一の富として天国以外には何も持っていません。すべてのものは放棄しました。修道者の目的は、まったくここにあります。道をあやまらないように注意しなさい」。

 「小罪は道をあやまらせる第一歩です。イエス・キリストとの一致をさまたげ、さびをもたらし、ふれあいをさまたげます。それは悲しみと不満の原因となります。それが『状態』となるとき、生命の破滅をもたらします。時間の浪費(時間の浪費は、彼がもっとも強調していた天であることに注意しなければならない)。この国は二十万と少しばかりの信者がいるだけです。多くの仕事があります! 時間の浪費は欲望を強めます。特に、情欲、怠惰、貪欲を強めます。小罪に習慣的におちいる人は、聖性にいたりつけません。そして、たしかに、そこにとどまりはしないでしょう。聖性の道は、みなさんにとって会憲の道です」。

 「修道士は、司祭の書いたものの考えを吸収し、それをふやさなければなりません。それゆえ教養がなければなりません。修道士の召命を示すものは、知恵の不足ではないのです。私たちの使徒職には特別な準備が要求されます。召命に力をそそぎなさい。召命は修道会の将来の力となります。会憲に従って、教育に力をそそぎなさい。特に朝と夕には共同生活を行ないなさい。掃除、警戒、信心、謙遜と愛徳に力をそそぎなさい。話すより聞く方をもっと愛しなさい。そこに人間の価値が知られます。多く聞きなさい。少しだけそして正確に話しなさい。他の人の態度をさばいてはなりません」。

 私がアルベリオーネ神父の説教を聞かなくなって約十年たっていた。どういうわけだかわからないが、私は、彼がいったいどんな新しいことを言うかと期待していた。それゆえ、私はまだイタリヤでの養成期間とその後にも何回となく耳にしたと同じことを書いたとき、ある種の幻滅を味わったように思われた。何も変わったこともない。どうしたことだろうか。いやちがう! 第一回の来日の間、プリモ・マエストロに一つの変化があることをみんな知ったのである。

 つまり、頑固さが少しなくなり、厳格さが消え、もっと父親らしくなったということである。私はそのときはじめて、彼自身の家庭と兄弟たちについて語るのを聞いたし、私たちの笑い話しを聞き、はじめて笑ったのである。彼はある人がたばこをふかすのを見ても、はじめていやな顔をしなかった。何の抵抗もなく自由にはじめて写真をとらせてくれた。はじめて写真機の前に立つとき、いつも何か恐れるようにしていたものだったのだが。しかし、どうしてこうも変わったのだろうか。そのとき言った次のことばからそれがわかる。「もし、このことが何かの役に立つなら、喜んでそうしましょう」と。この考えはもはや当時から「修道会と兄弟たちのために助けになりうるものは何でも承知しよう」という彼の行動原理となっていたように思われる。それがたとえ個人的には喜ばしいことでなくとも。

 このことは、私にはアルベリオーネ神父が自分自身を、精神的才能も知的才能も心も、鉄のような意志も能力も、もし彼が世間にいたなら、かがやかしい成功を保証したにちがいないそれらのすべてを、ただ神への奉仕のためにだけあますことなく捧げたという事実のもっとも明白なしるしでもあるように思われる。ただそれだけではなく、非常に弱くなった彼の健康は、彼が司祭になる以前にもそうだったのである。私はアルベリオーネ神父が、たとえ、すべてを神の摂理にまったく任せていたとはいえ、肉体的におとろえていった自身の健康については、それほど関心のあるすべてのもの、すなわち、食事、住居、掃除、医師、医薬などについては十分に気をくばっていたのである。

 聖パウロはコリントの人びとにあてて次のように書いた。「私たち、すなわち私とシルヴァーノとティモテオとがあなたがたにのべ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。20 神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます」(Ⅱコリント 1,19-20)と。まさにアルベリオーネ神父は、「『しかり』となると同時に『いな』といったのではない。そうではなく『しかり』……神に栄光を帰すのである」ということばを、自分自身に実現すべく努力したように思われるのである。

 どのようにして、そして、どうしてそのことが起こったかを、私は、創立のはじめから彼のそばにいた人びとでさえ、だれも知らないと思う。われわれは、ただ彼もまた聖パウロのように若いときから真理の道を歩かなかったことを知っている。その後はどうだったろうか。大きな変化があったのだ。聖パウロのように彼もまたキリストに「とらえられた」のである。若いアルベリオーネをなやませたおそるべき危機を終結させたみの「とらわれ」の正確の瞬間がどのようであり、そして1900年の4月と10月の間の頂点となったその瞬間がどうであったかだれも知る者はないであろう。丁度、彼がどれほど戦い、それにつづいてなされた回心と召命に忠実であるために、どれほど堪えしのばなければならなかったかを知ることができないように───。

 彼の霊的な内的生活に関しては、非常にとざされたものがあった。いずれにせよ、アルベリオーネ神父は、聖パウロが自分自身に「うしろのものを忘れ、前のものに向かってからだをのばしつつ、目標を目ざして走り、イエス・キリストにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようとつとめている」(フィリッピ 13,14)と言ったことを実現したような印象を私はいつも持っている。

 こうして、人間的には説明することのできないそのような非常に偉大な事業を実現しながら、彼がその病弱なからだを八十歳まで保ったという事実をわれわれは説明できるのである。

 その他のことについて、プリモ・マエストロにとり、聖パウロに対する感嘆は、その特殊な召命の実現に際して、常に役立ったことをわれわれは知っている。私は彼がいつ、どのようにして聖パウロに対するこの感嘆をその心のうちに持ちはじめたかは知らない。たぶん、異邦人の使徒の偉大な活躍について語られている手紙、もしくは、使徒行録の朗読によってでもあったろう。とにかく、プリモ・マエストロが、学びうること、しかし特に、修道会における汲みつくしえないエネルギーとキリストへの自己の全き奉献において、聖パウロの姿を自身のうちに獲得しようと努力したことは確かである。

 神への自己のまったき奉献、使徒職における全エネルギーの関係は、プリモ・マエストロがしばしば、しかも何かにつかれるまでにもっとも強調しながら、われわれに命じていた二つのことであった。中途半端になしたこと、職務へのたんなる部分的な適応は、彼を満足させなかった。しかもわれわれの弱さや未熟さ、表面的で子どものような軽薄さにもかかわらず、彼は神と召命への完全な奉献の必要性について強調した。それはたんに直接的な結果を得るためではなく、むしろ、一つの使徒的使命の実現において、パウロのあとに続きたい人のために、真に完全でふさわしい養成を達成するのを目的としていたのである。彼の教育と養成の原理によれば、できるだけ早く、少年の頃から、すべてあますことなく神にささげられなければならなかった。一方、心、意志、肉体的力は、……すべて神から来るものであり、われわれは召された使徒職の実践を通して、神にすべて返さなければならない。聖パウロ自身が行ない、教えたように。

 聖師イエスにたいする信心も───それは主要なものであるが───プリモ・マエストロによって、イエス全体をとらえ、イエス全体を全人類に与えること、という完全性の識別をもって選ばれたのである。こうして、イエス・キリストはご自分を、「道・真理・生命」として示された。プリモ・マエストロは、その修道者的遺書を次のように書き残している。「道・真理・生命である聖師イエス・キリストは、生活と信心として無限の価値があります。彼は、すべての修道的、使徒的完成を照らしてくださいます」と。

 アルベリオーネ神父が、自己全体を、たまものとして神にささげるにあたり、強くのぞんだ興味深いことは、修道院では、パウロ的考え、パウロ的な心、パウロ的な手をもってすべてをするというのぞみに表現されている。建物のための煉瓦、印刷用の紙、印刷用の活字、聖堂の机、勉強の本、編集、記事、ホスチアなどがつくられた。すべては、彼によればパウロ的性格を持っていなければならなかったのである。しかも彼は、パウロ的天国についてさえも語った。

 いつでも、どこでも、この彼の教えを実現することはできなかったが、長い間、われわれの多くの中には、深い影響が残った、戦争中、イタリア降伏後、われわれイタリア人は、日本において、当局がわれわれの運命を決定するのを待って、いつも戸口のところで一人の警官の見張りを受け、相当長い間、強制的に家の中にとじこもめられていた。この期間、何かこわれたものを修理しなければならないことが起きていた。外出することができなかったので、自己流に何とかしなければならなかった。ある日、キエザ神父がベランダの下で電気を修理している間、しばらく彼を見守ったあと、見はりの警官はおどろいて、「みなさんは、何でも自分でやるんですか」と彼に言った。「われわれにとって、こわれた電気、こわれた扉、水もれのする水道のコック、きかなくなった錠前間など、ありふれたことであった。そしてそれは、アルベリオーネ神父によって受けた完全なパウロ的教育の枠内に入っていた。

 この種の全体主義は、いつも物質的に応用できるものではなかった。彼はそのことも自分でも認めていた。しかし、指針として、霊的生活と使徒職に、アルベリオーネ神父の確固たるアイデアがいつもあった。彼は次のように言ったものだ。「大切なのは、神に、多くのあるいは少なく与えることではなく、すべてを与えることです……人間全体をイエス・キリストにおいて、知恵、意志、心、肉体的な力を神への全体的な愛のために、使徒職のために、自然、恩寵、召命のすべてを」と。修道生活について、彼は次のように言っている。「神に、私自身のすべてを捧げることです。『すべて』。これこそ偉大なことばです。私たちの聖性はそのすべてに依存しているのです」。使徒職については次のように言っている。「人々に、その存在全体をもって、イエス・キリスト自身において生きさせることです……。全使徒職において、あらゆる種類の人々のため、すべての問題のため、全世界に向けること……。公的、私的あらゆる必要性、宗教全体を生きさせることです」。

 アルベリオーネ神父は、聖パウロ修道会が、聖パウロの「キリストにおいてすべてを回復する」との啓示に従い、天父の偉大なご計画の実現に参加することをのぞんでいる。その他、神の奉仕における決定は、もっとも大切にした事柄の一つであった。彼は言ったものである。「悪を避けるだけではたりません。善をしなければなりません。だれかが私に『こうすることは、いったい、どうして悪いのですか』と言うとき、私は、『こうすることは、いったい、どうしてよいのですか』と答えます。だれか区別をはじめ、そして、ここまではまだ罪でしない……ここまでやることができるのだ……! と言うなら、その人はもはや大きな危険の中にあるのです。神に対しては、もっと寛大さが必要なのです」。神への寛大さは、たしかに彼に欠けることはなかった、長年にわたり、彼ははげしい苦しみを沈黙のうちに、だれにも、何も知らずに耐えた。何回となく彼は、自分の生涯の終わりがやって来たという考えを持ったにちがいない。

 1947年、私にあてた一つの手紙の中で彼は次のように書いている。「私があなたを祝福するように、どうぞ、あなたも私を祝福してください。私が終わりに近づいている今、少なくとも私が回心するように」と。1960年の一ヵ月の黙想の折り、ある説教の中で、彼は、説教を聞いていたわれわれに、自分の生涯の終わりもそれほど遠くない、という印象を与えながら、「……プリモ・マエストロがなくなったとき」ということばを使った。彼が耐えていた苦しみは、ますます増大していった。

 もし、修道会の将来についての心配、ある種の問題についての考えからやって来る悩みなどをつけ加えるなら、われわれは、彼の肩にかかっていた十字架が、どれほど重いものであったかを想像することができる。しかし彼は、寛大と単純をもって、沈黙のうちに、すべてを受けとっていたのである。医師たちがいろいろのことを彼にすすめ、また指示を行ないはじめたとき、彼は、冷静にすべてを行なった。彼らが赤ブドウ酒を飲むのをすすめると、赤ブドウ酒を飲んだし、コーヒーの中にバターを入れることをすすめられると、コーヒーの中にバターを入れた。トマトによる療法をすすめられると、その療法を行ない、薬療法をすすめられると、忠実にそれを行った。輸血をすすめられると、それも受けた。私は常に、彼が自分自身と肉体の健康について、決して心配せず、むしろ、医師たちがすすめるすべてのことを、あたかも、神から直接にすすめられるかのように受け入れながら、彼らのなすままにさせていたという印象を受ける。

 しかし、彼が心配していたのは、神から受けた使命と、最後の最後までその忠実な遂行に関することであった。私は“彼の活動の最後の頃、総本院の総会の会合に参加していたとき、普通の問題や重大な問題について語られたり議論されていても、彼は頭をかたむけ、眠っているかのように目を閉じて、その場所にいた。しかし、もしだれかが、使徒職の新しい方法のために具体的な提案をすると、───そういううわさだったが───「耳をそばだて」、一ひとばも聞きのがすまいと注意していた”、ということを聞いている。

 1970年、私は休暇のためイタリアに行った折り、カステロット神父(われわれは一緒にいた)とともに、彼にあいさつに行った。プリモ・マエストロは明らかに感動していた。われわれは彼に、東京の会員はみなつつがなくすごし、心から彼を思い、われわれを通してみなあなたにあいさつを送った、と告げた。もはや話すことが困難になっていたプリモ・マエストロは、非常に努力し、「……日本のパウロ会についてもっと長く……話したい……」ということができた。私は心のつまる思いであった。かわいそうに! 非常に努力して、やっとわずかなことばを発したのだ。いったいどうして、日本の修道会とその諸問題について長く語り合えよう。しかし、「神の事柄」は、彼の疲れが知性が一つの考えをまとめることのできた最後の瞬間まで、彼をして心配させていたということは明らかである。

 帰日する前に、あいさつするために彼のところに行ったとき、私は、日本のあらゆる困難と、不可避的なあらゆる問題をかかえている日本の修道会共同体と、私自身のために、彼の祈りをお願いした。彼は何も言わずに聞いていた。もはや、彼には語ることは困難であったのだ。そして私が無意識のうちに、彼の手を強くにぎったときも、何も言わなかった。ただ苦しそうなゼスチュアをしただけだった。それで、私はわびたのである。やがて彼は閉じられた扉の方に手をのべ、大きな努力を払いながら、「司祭」とやっと言った。彼は自分のへやのそばにいた秘書のスペチアーレ神父を呼びたがったのだ。私は、彼を呼んだ。その「司祭」ということばは、プリモ・マエストロの口から私が聞いた最後のことばであった。

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