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これってどんな種?

昇天のお恵みという種 主の昇天(マタイ28・16〜20)

 私たちの普段の生活の中で時々「復活」とか「昇天」という言葉を耳にします。例えば、スランプに陥っていた人が、もとに戻った時など「彼は、やっと復活して実力を発揮できた」というように「復活」という言葉を使っています。また、死ぬことを「昇天」という意味で使うこともあります。では、私たちにとって「復活」や「昇天」はどのように響いてくるのでしょうか。この機会に少し振り返ってみてもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに使命を与えたのち天に昇られる場面です。イエス様が葬られた墓に出かけたマグダラのマリアともう一人のマリアは、み使たちから「イエスは死者の中から復活された。あなた方よりも先にガリラヤに行かれる。あなた方はそこでイエスにお会いできる」と言われた後、イエス様に会います。そこで、イエス様は、彼女たちに「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くよう告げ知らせなさい。そこでわたしに会える」と言われます(マタイ28・1〜10参照)。

 みことばには書かれていませんが、彼女たちは弟子たちの所に行って、み使いに出会ったこと、そして、イエス様にも出会ったことを伝え「ガリラヤに行くように伝えられた」と言ったのではないでしょうか。弟子たちは、彼女らの言葉を信じてエルサレムからガリラヤに向かって旅立ったのです。弟子たちにとってエルサレムは、自分たちが師として仰ぎ、メシアだと思っていたイエス様が十字架の上で亡くなった所であり、自分たちがイエス様を見捨てて逃げ出した所でもありました。

 彼らは、そのような苦い場所であるエルサレムを後にして、ガリラヤに向かいます。エルサレムからガリラヤにはおよそ3日から4日ほどかかります。その道中弟子たちは、どのような思いで歩いていたのでしょうか。もしかしたら、道々イエス様と歩いた場所を通っていろいろな場面を思い出していたのかもしれません。そして、彼らはガリラヤに着き、イエス様が示された山に登ります。

 ガリラヤは彼らの故郷であり、イエス様と出会った所であり、また、イエス様がいろいろな奇跡や教えを広めたところでもあります。弟子たちにとってガリラヤは、生きていたイエス様を思い出す所ではなかったでしょうか。弟子たちは、山の上で復活されたイエス様と出会います。聖書の中で【山】は神がおられる神聖な場所として表されます。そして、イエス様が弟子たちに会われたこの山は、「山上の説教」をされた山と言われているようです。

 弟子たちは、そこで復活されたイエス様に出会います。みことばには、「……。そして、イエスを見て伏し拝んだ。」とあります。彼らにとって、復活されたイエス様は、今まで一緒に生活してきたイエス様ではなく、【メシア】として礼拝するお方となっていたのでしょう。同時に、以前湖の上を歩いておられたイエス様に対して「まことに、あなたは神の子です」(マタイ14・33)と言った時のことを思い出していたのかもしれません。弟子たちは、復活されたイエス様と出会うことで、改めてイエス様と一緒に生活してきたことを思い出したのではないでしょうか。

 しかし、そんな弟子たちの中には、本当にイエス様が復活されたかどうか、目の前におられる方が本当にイエス様なのかと【疑う】弟子もいたようです。私たちは、主のご変容の場面を振り返ってみるといいかもしれません。もし、復活されたイエス様が、「顔は太陽のように輝き、衣は光のように光った」(マタイ17・2)とあるとようなお姿だとすると、弟子たちの中に【疑い】が起こっても不思議なことではないでしょう。

 そんな弟子たちの所にイエス様は、近寄られます。そして「わたしには天においても、地においても、すべての権能が与えられている。」と言われます。イエス様は、ご変容の時にも恐れて倒れている弟子たちの所にも【近寄られ】、「起きなさい。恐れることはない」(マタイ17・7)と言われました。イエス様は、私たちが不安を感じている時、疑問を抱いている時に私たちの所に【近寄って】くださりお起こされ、お恵みを与えてくださるのではないでしょうか。それまで、疑っていた弟子たちもそのお恵みで復活されたイエス様への【疑い】が信仰へと変わっていったことでしょう。

 イエス様は、「あなた方は行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。……洗礼を授け、……すべてを守るように教えなさい」と言われ、弟子たちを福音宣教へと派遣します。今、私たちが洗礼の恵みをいただいているのは、このイエス様の言葉がなされたということでありますし、今度は、私たちが弟子たちと同じ使命を頂いているのです。

 イエス様は「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」と言われます。私たちは、いつもともにおられるイエス様と平安の内に、イエス様が与えられている権能を共にいただきながら、福音宣教の使命を果たすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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