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これってどんな種?

小さな捧げ物という種 年間第32主日(マルコ12・38〜44)

 私が子どもの頃、ミサの中で献金の袋が回って来ると父がいつも私に100円を渡していました。きょうのみことばを読むとき、なぜかそのことを思い出します。

 きょうのみことばは、イエス様が「律法学者の偽善」と「やもめの献金」について語られる場面です。みことばは「多くの群衆はイエスの語られることを喜んで聞いていた。」という1節から始まっています。彼らは、イエス様の話を聞いてなぜ喜んだのでしょうか。イエス様はエルサレムの境内でファリサイ派の人や律法学者、そしてサドカイ派の人々から、「イエス様の権威」「死者の復活」「納税」についての質問に対して巧みに答えていました。

 群衆は、この特権階級の人々がイエス様から言い負かされている様子を見て愉快と思ったのではないでしょうか。群衆の中には、ファリサイ派や律法学者の偽善に対して疑問を抱き、嫌というほど苦しんだ人もいたのかも知れませんし、イエス様の教えが律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えらえていたため(マルコ1・21)、イエス様の話を聞き入っていたのかも知れません。彼らにとってイエス様の話は、自分たちの心の叫びを代弁していってくれていると思ったのではないでしょうか。

 イエス様は、群衆に「律法学者に気をつけなさい」と言われます。律法学者の教えや権威は、ユダヤ人たちを指導するために重要なことでした。しかし、彼らはいつの間にか教えよりも、自分たちの地位、権力を大切にし始めたのでしょう。ですから、広場では敬意を持って挨拶をされ、会堂や宴会の上席に当たり前のように座っていたのです。会堂での上座というのは、会堂で聖櫃の前にある彼らだけが座ることができた椅子のことので、別にそこに座ることが偽善的というのではなく、彼ら自身から醸し出される内面のことを指摘しているのではないでしょうか。

 さらに、イエス様は、「やもめの家を食いつぶし、見せかけの長い祈りをする」と言われます。律法学者は、自分たちの特権階級を利用して当時社会的な低い身分とされているやもめに対して不当な請求をし、彼女らのもてなしを食い物にしていたようです。また、彼らの祈りは、自分たちの偽善を覆い隠そうとするものだったようで、祈りさえも自分たちの保身のために利用していたのです。イエス様は、彼らのそのような偽善的な態度に対して厳しく「律法学者に気をつけなさい」と言われたのでした。

 さて、イエス様は献金箱にお金を入れている人々に目を向けられます。神殿に備えられている献金箱は、ラッパのような形をした金属でできていました。ですから、たくさんのお金を入れると、ジャラジャラと大きな音が響いたのです。みことばの中で「金持ちがたくさん投げ入れていた」というのは、その音の大きさによってわかり、それによって周りの人の目を引いていたのではないでしょうか。金持ちにとってその音は、心地よく聞こえたことでしょうし、優越感さえあったのかもしれません。本来、献金は神様に捧げるものですから、そこに見栄があってはならないものです。しかし、金持ちは、自分たちがどれだけの大きな音を出したかで周りの注目を浴びることに酔いしれていたのではないでしょうか。

 そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨を2枚投げ入れます。彼女はどのような気持ちで投げ入れたのでしょう。周りの金持ちが威勢よく投げ入れている側でわずかなレプトン銅貨を入れるのです。大きな音もしませんし、周りの人も気にもしません。本当に消え入りそうに、また、恥ずかしくてその場から早く消えてしまいたい気持ちもあったかもしれません。しかし、彼女はそのわずかなお金を投げ入れて、自分を神様に捧げたのです。

 当時のやもめは、亡くなった夫の財産か、または、息子の収入や身内からの施しによって生活をしていました。ですから、彼女にとって2枚のレプトン銅貨は、貴重なお金であり、それがなくなれば明日の生活費もなかったのです。イエス様は、そのことをご存知だったので、弟子たちを呼び寄せ「あなた方によく言っておく。あの貧しいやもめは、献金箱に投げ入れている人の中で、誰よりも多く投げ入れた。……その持っているすべてを、生活費のすべてを投げ入れたからである」と言われます。

 ここでいう【生活費】は、ただ単にお金というだけではなく、彼女の人生、彼女の生活のすべてという意味のようです。また、彼女は、この2レプトン銅貨がなくなれば後は、おん父の助けがなければ生きていくことができないのです。イエス様は、彼女の信仰の深さを見られ弟子たち呼ばれたのです。イエス様は、律法学者や金持ちのような見栄や偽善ではなく、心から捧げることの美しさ、素晴らしさを私たちに示されたのだと思うのです。私たちの【献金】は、ただ単に金銭的な意味ではなく、たとえそれが偉大なことでなくても小さな日々の生活をおん父にお捧げすることではないでしょうか。私たちは、貧しいやもめのように謙遜に自分自身をおん父に差し出すことができたらいいですね。

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