書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

これってどんな種?

引き寄せられているという種 年間第19主日(ヨハネ6・41〜51)

 聖画の中にイエス様が戸口の前に立ってドアをノックしようとしているものがあります。黙示録にある「見よ、わたしは戸口に立ってたたいている。もし、誰かがわたしの声を聞いて戸を開くなら、わたしはその人の所に入って、食事をともにし、その人もわたしとともに食事をする」(黙示録3・20)という箇所を描いたものです。イエス様は、私たちの心をいつもたたいて、私たちの中にお入りになられたいのです。ただ、私たちがイエス様のたたいている音に気づくかどうかが大切なのです。

 きょうのみことばは、イエス様が「わたしは天から降ってきた、生けるパンである。」と言われる場面です。ヨハネ6章はイエス様が、5千人以上の人々を満腹させる奇跡から始まり、「いのちのパン」について教えられ、「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものだからである」(ヨハネ4・33)と言われています。もちろん、イエス様は、群衆が分かりやすく感覚を伴って理解できるように、実際にパンと魚を増やして食べさせました。残念ながら、彼らはその食事が自分たちのお腹を満たすだけのものとしか考えることができず、その奥にあるおん父からの恵み、イエス様の業という所までには行き着けませんでした。

 イエス様と群衆との問答は、いつも平行線を辿っていてなかなかイエス様が話される【本質】の部分を彼らは汲み取ることができません。きょうのみことばは「ユダヤ人たちは、イエスが、『わたしが天から降ってきたパンである』と仰せになったので、イエスのことで不平を言い始めた、……」という場面から始まっています。イエス様は、何度も「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものだからである」(ヨハネ6・33)、「わたしが命のパンである」(ヨハネ6・34)、とか「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を果たすためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである。」(ヨハネ6・38)など群衆に対して話されています。しかし、彼らは、イエス様の言葉を理解できず、イエス様を神の子ではなく、単に彼らの身内(人)として捉えていたのです。

 みことばは、群衆から「ユダヤ人」という言葉に変わっています。福音書の中で「ユダヤ人」という言葉は、イエス様に対して【敵対】している人々のことを指しているようです。ですから、みことばの中にありますように「不平を言い始めた」とあるのです。人の心は、変わりやすくイエス様がなさった奇跡を目の当たりにしてイエス様の所に集い、腹を満たして頂き、めいめいが小舟に乗ってイエス様を追いかけ、飢えることがないパンについての話を聞いたにも関わらず、彼らは、イエス様に対して【不平】を言い始めたのです。私たちは、自分の心を満たしてくださるときには、イエス様に対して感謝をしますが、苦しいとき、不条理な事が起こる時、「どうしてこのような事が」と嘆いてしまいます。

 ユダヤ人たちは、「これはヨセフの息子ではないか。その父も母もわれわれは知っている。どうして今、『わたしは天から降ってきた』などと言うのか」と不平を言います。ここで【不平】というのは、かなり強い言い方で指導者に対して「自分たちの主張を示す。意見、要求を押し通す」という意味合いを持っているようです。彼らの不平の原因は、イエス様が言われた「わたしは天から降ってきた」という言葉で、大切な【パンである】という所まで至らなかったのです。

 イエス様は、「わたしを遣わされた父が、引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの所に来ることはできない。わたしはその人を復活させる」と言われます。イエス様が言われる【引き寄せる】というのは、ただ単に私たちの腕を引っ張って「こちらに来なさい」というものではなく、縄のような物を使って強引に引き寄せる、自動車で牽引するように力を入れて【引き寄せる】というようなことのようです。

 おん父は、私たちの頑なな心をここまでしてご自分の方へ【引き寄せ】ようとされておられるのです。もちろん、ここで働かれるのは、【聖霊の働き】です。パウロは、「神の聖なる霊を悲しませてはなりません。あなた方は、『贖いの日』のために、この聖なる霊によって証印を押されたのです」(エフェソ4・30)と言っています。イエス様は、この聖霊の働きでご自分の所に来た人を復活させると言われます。それも、この箇所だけではなく、繰り返し言われておられます。これは、三位一体総出で私たち一人ひとりをアガペの愛で救いたいという気持ちの表れなのです。

 イエス様は、「よくよくあなた方に言っておく。わたしは命のパンである。……わたしは天から降ってきた、生けるパンである。このパンを食べる人は、永遠に生きる。……この世に命を与えるためのわたしの肉である」と言われます。私たちは、聖体とみことばによって養われています。その恵みを感謝し、イエス様が私たちの心の扉をたたかれ、おん父が【引き寄せて】下さっているのを【気づき】、生活の中でこの恵みを周りの人に分かち合うことができたらいいでね。

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

RELATED

PAGE TOP