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これってどんな種?

ここから運び出せという種 四旬節第3主日(ヨハネ2・13〜25)

 私たちは、いろいろな商品を購入する時、その商品の「使用上の注意」について書かれたところを読むのではないでしょうか。例えば、薬局で薬や化粧品などを買う時、家電屋で必要な電化製品を買う時など、その商品の成分や賞味期限、または、商品の使用方法などに目を通すことでしょう。その中には、間違った使い方、目的以外の使い方をしないように、また、体に合わない時の使用中止なども書かれてあります。私たちは、そのような「使用上の注意」に沿ってそれらの商品を使っていますし、使うことで安全、安心に使用することができるのです。

 もし、私たちが「使用上の注意」を無視し、勝手に使用した時、私たちは、体調を崩したり、怪我をしたりする危険性が生じてしまいます。では、おん父から創られた私たちを含め、この地球上のあらゆるものはどうなのでしょう。本来の使い方を無視して間違った使い方、過度な使用の仕方をするといろいろな所に歪みが生じるのではないでしょうか。今一度自分自身を含め、周りに目を向けてみるのもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が「過越の祭り」でエルサレムにお上りになり、そこで商売をしている人たちに怒りを覚えられ、追い出される場面です。みことばは、「ユダヤ人の過越の祭りが近づいたので、イエスはエルサレムにお上りになった」と始まっています。この「過越の祭り」はおん父が、イスラエルの民をエジプトから救われたことを記念として祝う、ユダヤ教の大きな祭りの一つです。ですから、エルサレムの神殿は地方から巡礼にする人々でいっぱいになります。人々は方々の地方から神殿に来て生贄を捧げ、感謝の祈りをおん父に捧げます。

 きょうのみことばはまさに巡礼者でいっぱいになった神殿での出来事です。神殿の境内は、生贄に用いる「牛、羊、鳩」を売る人たち、また、両替屋が巡礼者に商売をしていました。巡礼者は、神殿でおん父に、生贄にする動物を自分たちの所から持って来るには、かなりの負担があったわけです。ですから、神殿の境内でそれらの動物を販売する商人がいたのです。また、神殿に献金するお金は、イスラエルでの貨幣しか使えないので、通常使っているギリシャ貨幣、ローマ貨幣を両替するため両替屋がいたのです。

 イエス様は、巡礼者相手にする商人に対して怒りを覚えられ、縄で鞭を作り、それらの動物を追い出され、両替屋の金をまき散らし、その台を倒されたのです。そして、彼らに対して「これらの物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言われます。きょうのみことばは、他の共観福音書にも書かれてあり、共通する言葉として「わたしの家は祈りの家」という言葉と「強盗の巣にしている」という言葉です。この二つの言葉はヨハネ福音書にはありませんが、神殿は「わたしの父の家(祈りの家)」ということと、「商売の家(強盗の巣)」ではないということは共通するのではないでしょうか。

 神殿の境内で奉納物の商売をしている人々は、それらの動物を育てる人々を搾取していたかもしれませんし、安く仕入れそれに手数料を上乗せして巡礼者に売っていたのかもしれません。両替屋に関しては、イスラエルの当時流通しているローマやギリシャの貨幣は使えませんでしたのでユダヤ人が以前使っていた旧貨幣に替えていたのです。しかし、一旦、神殿に献金した貨幣は、日常では使えませんので溜まった献金の貨幣は、また両替屋の元に戻って来るシステムになっていたのかもしれません。このように考えますと、当然、神殿を運営している祭司長と商人の間で利権の問題などが生まれてきていたことでしょう。

 イエス様は、本来【祈りの場所】である【神殿】が「商売の家(強盗の巣)」として用いられることに対して、おん父への祈りに専心するべき神殿が汚されていることに対してお怒りになられたのです。最初は、巡礼者に対して便宜を図るためだったのかもしれませんが、いつの間にか私服を肥やすようになってしまっていたのです。

 パウロは、「あなた方は知らないのですか。あなた方は神の住まいであり、神の霊が住んでおられることを。……あなた方はその神の住まいなのです」(1コリント3・16〜17)、また「……。あなた方は、神から受けた聖霊が宿っていてくださる住まいであり、……その体で神をたたえなさい」(1コリント6・19~20)と言っています。私たちは、おん父から創られた【神殿】なのです。もし、私たちがおん父から創られた本来の【神殿】として生きていなかったなら、イエス様は私たちに「これらの物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家にしてはならない」と言われることでしょう。

 私たちは、知らない間に、おん父から遠ざけるもの、おん父との関係を邪魔するもので私の中の神殿を汚しているかもしれません。私たちは、【神殿】である私たち自身を振り返ってみて、心からおん父に祈りを捧げ、復活されるイエス様をふさわしい心でお迎えする準備ができたらいいですね。

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