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カトリック入門

「カトリック入門」 第63回 八代の殉教者【動画で学ぶ】

序)日本三大の急流の一つ熊本県の球磨川。人吉で球磨川下りを味わったことがあるが、流れは速い。しかし、下流にある八代辺りでは穏やかな流れとなる。清流が流れ、これに育まれた信仰を感じることができる。

1 八代と小西行長
*八代はキリシタン大名の小西行長ともゆかりが深く、彼のもとには数多くの信者たちが集まってきた。それがいつごろからかは定かではない。熊本の領主・加藤清正も最初は、キリシタンを黙認していました。やがて朝鮮出兵の時に、八代との関係が非常に悪くなり、八代一帯の支配は分断され、1600年、関ヶ原の戦いに出陣した小西行長は敗戦の末、京都六条河原で斬首されます。主君を失った八代の町には、翌年、小西行長の敵でもあった加藤清正が、キリシタンを抑制するために日蓮宗を入れようとしました。しかし、この時代は小西行長寄りのキリシタンが多く、徳川幕府による組織的な迫害も、まだ始まっていませんでした。

2 迫害の始まり
*1601年、加藤清正は八代の民衆に日蓮宗への改宗を命じ、圧力に屈したキリシタンの数多くの仲間たちは信仰を捨て、日蓮宗へと改宗していきました。しかし、そういう圧力にもめげず、毅然とした態度で信仰を表明し、殉教をいとわないキリシタンたちもいました。
*この当時、殉教にあたり、処刑の方法としていくつかのランクがありました。身分の高い人は切腹、その下は斬首刑、さらにはりつけの刑、穴吊りの刑の順です。火あぶりの刑はもっと後の時代です。

3 八代の殉教者
*若い侍であったヨハネ南五郎左衛門は、一度信仰を捨てますが、心から罪を悔い、回心して1603年12月8日、熊本で斬首されます。
 翌日には、八代の城下(麦島の刑場)で武士であったシモン武田五兵衛、母のヨハンナ、妻のアグネス、南の妻マグダレナとその養子のルドビコ(7歳)がはりつけの刑で殉教します。遺体は朽ち果てるまで、その場にさらされますが、ヨアキム渡辺、ミカエル三石、ヨハネ服部の三人がひそかに長崎に運びます。

4 司祭不在
*この三人は、司祭不在の時代にあって、洗礼を授けたり、病人を見舞い、教理を教え、結婚を司式したり、慈悲役の務めを果たしていました。さらには家庭で信仰が弱くなっていれば、励ましたり、もう一度信仰に立ち返るように元気づけていました。この三人も1605年には捕まり、1606年にヨアキム渡辺は牢死。ミカエル三石とヨハネ服部は1609年2月4日、八代の麦島で斬首されました。同時に彼らの息子トマス三石(13歳)とペトロ服部(5歳)も処刑されました。
*記録によれば、「トマス三石は身体障がいがあって、父の遺体のそばにひざまずき、不自由な手を右の手で胸に寄せて、天を仰ぎながら、首を差し出した」とあります。彼は殉教にあたり、覚悟と殉教への敬意を払っています。

5 遺体
*彼らの遺体は有馬に運ばれ、その後長崎のトードス・オス・サントス教会(現在の春徳寺付近)に埋葬され、その後、1614年に遺骨は追放された宣教師によってマカオに運ばれました。1995年、マカオの中国返還のおり、遺骨は再び日本に戻ってきました。
*過酷な迫害にあっても、純粋な信仰心が清く、静かに流れています。

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