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カトリック入門

【カトリック入門】第98回 日野江城跡と有馬川殉教地【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

 東京から長崎へ飛行機で向かうと、福岡上空辺りで高度が徐々に低くなり、佐賀上空辺りでは筑紫平野や有明海がきれいに見え、やがて島原半島が見えてくる。その半島でひときわ目立つのが普賢岳。一九九一年六月三日、雲仙普賢岳が噴火し、深江町辺りに火砕流が発生し、多くの犠牲者が出た。活火山ということもあって、近くには雲仙温泉、小浜温泉などがある。この島原半島には、諫早から小浜方面へ行くルート、島原方面へ行くルート、さらには熊本からフェリーで島原に入るルート、天草の鬼池から口之津へ入るルートもある。またこの半島にはキリシタン関連の遺産も多く、半島を一周してみるとキリシタン墓碑の案内がよく目立つ。現在分かっているだけでも五十か所ほどある。弾圧の厳しさと共に、お墓には花が添えられ、大切に守り続ける地元の方々の優しさが伝わってくる。
 島原半島にキリスト教がもたらされたのは、一五六三年のこと。アルメイダ修道士が島原と口之津に教会を建て、大名の有馬義直が洗礼を受けたこともあり、家来や農民たちも洗礼を受け、さらには一五八十年、息子の有馬晴信が洗礼を受けて一斉に花開き、一五九六年には、有馬領内に七万五千人の信者がいて、四十五の教会があったと言われる。さらに、この有馬には司祭の養成、信徒のリーダー養成のためセミナリヨやコレジオ、修練院、印刷学校などが設立され、キリシタン文化が盛んになる。このセミナリヨから「天正遣欧少年使節」が育っている。
 有馬のセミナリヨ跡は、南島原市北有馬庁舎の所から入っていけばすぐの所にある。さらに上がっていくと「日野江城跡」とあるので、ワゴン車で行ったことがあるが、道幅がとても狭くて、ドキドキしながら走行した。そのまま上がっても、城跡の裏口に出てしまう。そのため、国道二五一号線の田平バス停辺りから県道三十号線に入り、橋口バス停付近で右折して大手口方面へ向かったほうが行きやすい。
 日野江城は有馬氏の四代目・有馬連澄によって築城されたと推定され、九州の城郭の中でも最古に属する城で、周囲に海水を導入した特殊な城と言われる。十四代目の有馬直純に至るまで、四百年間、有馬氏の本城として栄えた。キリシタン大名十三代領主・有馬晴信の第一居城で、城下町にはセミナリヨなどが建てられ、キリスト教文化の中心地ともなった。島原城築城時、かなりの石垣が取り壊され、現在は一部分が残っている。(古巣馨『殉教地の道をゆく―島原半島殉教地めぐり』参照)
 この城跡の近くには有馬川殉教地がある。有馬直純の三人の家臣とその家族、全部で八人が一六一三年十月七日、二万人の信徒が見守る中、火刑で殉教した。殉教にあたり、信者たちはロザリオを唱えたと言われ、祈りの中での殉教はどんなに荘厳だったかが想像できる。
 一六一二年、駿府で岡本大八事件が起こり、有馬晴信は甲斐(山梨県)の津留(つる/現在の甲斐大和)に流され、そこで一生を終えた。岡本大八は安部川のほとりで、妻子が見ている前で火あぶりの刑で命を落とした。有馬晴信の子、有馬直純は熱心な信徒であった妻マルタ(小西行長の弟、ベント如清の娘)と離別し、徳川家康の孫娘、国姫を正妻に迎えた。その後、直純は「父の晴信が家督を譲らないこと」を徳川家康に直訴した。大八、晴信、直純の三人共信者であったが、信者同志の醜い争い、野心と欲望が家康の心証を悪くし、一六一二年三月、天領であった有馬領内にキリシタン禁教令が発令された。この年の六月九日、有馬領全土に「禁教令」が敷かれ、聖職者たちは国外追放の命令を受けた。有馬の信者は激しい迫害に備えて「マリアの組」「聖体の組」「殉教の組」などを結成していた。これと並行して、日本全国で迫害が起こり、殉教者たちもたくさん出るようになるが、信者たちの熱意は燃え上がっていった。直純は主だった家臣のキリシタンを処刑することを決意し、八名の重臣を呼び出し、そのうち五名は表面的ではあっても棄教に同意したが、三名とその家族は殉教を希望した。アドリアノ高橋主水、妻ヨハンナ高橋、レオ林田助右衛門、妻マルタ林田、娘マグダレナ、十二歳の息子ディエゴ、レオ武富勘右衛門、息子パウロ。八人とも、有馬で活躍した「マリアの組」の会員であった。
 有馬川殉教地で殉教した八名のなきがらは、一六一四年、追放された宣教師たちによってマカオに運ばれた。一九九五年、マカオが中国へ返還された。彼らの遺骨は長崎に戻り、日本二十六聖人記念館に納められている。

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