書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

最初の宣教師たち

イン・メモリアル――日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち(54)

 パウロ・マルチェリーノ神父についての、二人の会員の感動的な回想を転載する。
 この二人は長年、あの偉大な宣教師の傍らで生活した私たちの修道会の功労者である。

「すばらしきかな、人生!」 グイド・パガニーニ神父による回想

 私は二十年以上パウロ神父の近くにいて、彼をただ使徒的熱誠の人だけでなく、まことに「パウロ的霊性」に満ちた人であると感じた。「パウロ的霊性」、それは彼が最新の神学と教会史の読書をとおして常に学び、多くの祈りによって、最期を迎えるその瞬間まで深めていた霊性であった。彼の使徒職活動に関する記憶を呼び覚ますには、幾つかのことを指摘するだけで十分であろう。

 パウロ神父は数多くの責任ある仕事(その中には、子ども向けのカトリック新聞「ジョルナリーノ」の制作もあった)を果たした後、三十二歳の時、日本に聖パウロ修道会を創立するために派遣された。彼は五十三歳まで日本にとどまり、通常の私たちの使徒職の分野においてだけでなく、当時は前人未踏であった「社会的コミュニケーション」の分野に勇敢に分け入って活動を行った。

 創立者に対しては常に徹底して忠実で、何人かの同僚と共に宣立した「困難な時期にも、万事においてアルベリオーネ神父に従う」という誓いを決して破らなかった。そのことを、彼は生涯の誇りとしていた。神と創立者の手が彼にとって厳しかった時でさえも、彼は常に忠実であり続けた。

 パウロ神父に非常に批判的だった人たちでさえ、最終的には彼の公正さと、その私心のない情熱に感嘆せざるを得なかった。

 日本での活動を終えた後、六年間をイタリアで聖パウロ修道会の管区長として、また特別の状況における創立者の特使として、パウロ神父は誠実にその任務を果たした。六十歳の時、韓国に聖パウロ修道会を創立すべく東京に一時立ち寄ったが、いまだ若者のような気迫と勇気を堅持し続けていた。その記憶力は日本にいた時と同様、韓国においても明瞭かつ正確であった。彼はパウロ家族以外の修道会に対しても、寛大に惜しみなくその愛を分かち合った。ただ一つ、彼が残念に思っていたことは、アジアのすべての国に聖パウロ修道会が設立されていないということであった。

 パウロ神父は労働者の家庭の出身であった。修道会の使徒職と高い理想を推進するために、その知性、その語彙力に何ら不足はなかったとしても、彼はやはり額に汗して働く一人の「労働者」であった。そして、「働き手を送ってくださるよう、刈り入れの主に祈っていた」ちょうどその日、彼は天に召された。

 「どうか主が私たちに多くの”建設者”、多くの”開拓者”を送ってくださいますように」。

 死の原因となった痙攣が起きてから七日目の夜、意識がまだはっきりしている時にパウロ神父はこう言った。

 「私は死んで、すぐに罪の赦しを得たいと願っています。私はすべての人のため、特に高齢者と罪びとのために女王様(聖母マリア)にたくさんお祈りをしなければなりません。私たち最初の者は多く受けたから、多く赦さなければならないし、また赦すように助けなければなりません。みなさん、どうか私の罪を赦してください。友人たちにどうぞよろしく。私は神とみなさんに赦しを願います。おお、なんとすばらしき人生! 私は引き続き私の命をささげます……。偉大ないけにえである主イエスに、私の本当に小さく貧しいいけにえを合わせて。愛のために主のみ旨を行いなさい。すべてを日本のため、そして韓国のために。主が私たちを祝福し、みなを愛してくださるように。善を行う人は、たとえどんなに小さな者であっても偉大です。主はすべてに善で報いてくださったのに、私たちは決して満足しない。私たちは罪びとです。そのことを認め、主に罪の赦しを願わなければなりません。喜びを得たいのなら、苦しむ必要もあります。よく忍耐しなさい、批判してはいけない。恐れてはならない。主は私たちと共におられます。ただ、ただ、信じなさい」。

 パウロ神父について、パガニーニ神父はさらに続ける。

 「パウロ神父は、誰に対しても飾り気がなく率直であった。彼は思ったことをストレートに言う性向があったため、周囲とよく衝突したことを私は知っている。しかし、彼は長く敵意を持ち続けることができなかった。激しい衝突の後でも、自分から進んで話しかけてみんなと和解していた。彼はただ赦すだけでなく、忘れることもできた。それは彼の深い霊性のうちの、一つの徴であった。パウロ神父はその霊性を養うために、聖書、聖体、聖務日課(教会の祈り)、そして創立者とロザリオに深く心を留めていた。

 彼は真のパウロ会員であった。主が彼のような真理と愛に満ちた多くの働き手を送ってくださいますように。私たちの修道会は本当に働き手を必要としているのだ。パウロ・マルチェリーノ神父さん、この恵みが与えられるよう、どうか私たちを助けてください!」。

「小さな巨人」 アルド・ガリアーノ神父による回想

 韓国におけるパウロ神父の傍らでの九年間という強烈な体験は、この「小さな巨人」(“小さな”は身長が低いという意味)の人格について感嘆するという、大きな幸いを私に与えてくれた。私は彼を、創立者の精神の最も真実な証人の一人で、最も忠実な理解者の一人であると思っている。私は彼の日本での経歴については漠然としか知らなかった。

 一九六四年に私がイタリアから韓国に出発する時、「パウロ神父は他者と一緒に働くことが難しい人なので、あなたはきっと苦しむことだろう」と、兄弟会員たちに言われていた。

 今思うと、そうした言葉は「結果として予言的だった」と言うことができる。しかしそれは、言われていたような意味においてではない。常に、前に前にと向かって歩み続ける人に歩調を合わせるということは、本当に難しいことであった。パウロ神父は毎朝、検討すべき新しい事業計画を私たちに提示し、行く手に立ちはだかる幾多の困難を気にすることなく、あふれ出る知性(それは、創立者の明らかなイメージそのものであった)のままに歩み始めようとするのである。私が経験不足や不測の事態への不安と恐怖で深く悩まないために、そして私が彼と一緒に働くことを拒否したい誘惑に陥らないために、私は自分には励ましと叱咤が必要だと思っていた。

 こうした不安を打破するため、私の内部には一種の変容と再生が行われなければならなかった。眼の前に広がる新しい世界に自分を開くため、私は思いや煩い、エゴイズムから解放されなければならなかった。そのためには自分の中により真実の価値を見いだす必要があり、改めて私は「死と復活の秘義」を生きなければならなかった。

 数年間パウロ神父の身近にいて、私は心からの誠実な友情とまことの清貧の精神、そして限りない楽観主義を彼から教えられた。パウロ神父は時が良くても悪くても、自分自身について語った人であり、魅力的な国・日本において、私たちの修道会の驚くべき発展の礎を築いた人であった。当時まだ形にもなっていなかった初期の印刷所では、彼は自ら手を汚し、ほほえみを絶やさず、まるで心躍る仕事をしているかのようにごく自然に、そしてごく素直に活字を組んでいたのだった。

 パウロ神父は服装に関しては質素で、自分のためにはどうしても必要な出費だけしかしなかった。旅行する時は貧しい人たちと共に一番安いバスに乗り、彼の白髪に敬意を表して席を譲ってくれた人は、彼からの温和なまなざしと、人の心をとらえて離さないほほえみを受けるのであった。彼は自分の身長について、いくらかのコンプレックスを持っていた。ある時、冗談で私に、「死ぬ前に足の移植をしてもらえたらなあ」と言ったことがある。しかし、それを補うかのように、彼は特に優れた心と知性を備えていた。パウロ神父は生活に困窮している人に対して、時には身の危険を冒してまでも、勇気を持って助けの手を差し伸べていた。彼は人を信じやすく、誰かが自分を騙すとは考えもしなかった。

 彼は七十歳になっても、創立者のそばで過ごした若き日の熱意と献身のうちに「パウロ的精神」を生きていた。パウロ神父は常に彼の精神と心に刻みつけられた創立者のイメージを保ち続けていた。「宣教の最前線」で死ぬことを常に願い、中国宣教のための詳細な計画を立てて、それに抑えがたい魅力を感じていた。韓国での最後の数年間、彼は使徒職活動の責任者の任務を全て解かれた。しかし、責任を外された有能な人が体験する悲哀や無念さにもかかわらず、彼はただちにその命令に従い、まことに驚嘆すべき穏やかな心で新しい責任者と共に働いた。彼は私に、「ただ一つ心配なのは、この私の異動がイタリアへの”強制帰国”を意味するのではないかということだよ」と打ち明けたことがある。しかしパウロ神父は、重い病でやむなくイタリアへ帰国することになった。

 韓国語で「ハラボジ」(おじいさん)と愛情を込めて呼ばれていたパウロ神父について、伝えるべきことはたくさんある。なぜなら彼の「人生物語」にはセンセーショナルな出来事が実に多くあり、その活発な活動は世界に及んでいるからである。彼が行った事業で論議の対象になったことを、後でいくらでも批判することはできるだろう。しかし七十年の長きにわたって、限りない情熱をもってパウロ的理想のために、倦むことなく、責任を持って献身した人物は、まさに尊敬するに値し、敬意を表すに値するのである。

 パウロ神父は、「創立者のカリスマへの忠実とは、それを日々再発見し、再解釈し、時代の先端を歩むことである」と深く確信していた。

 七十歳にして彼は、常に若々しく旺盛な精神を保ち続け、若者たちの激しい討論を活力に満ちた大切なものとして受け止めていた。パウロ・マルチェリーノ神父が眼前に見つめていた使徒的情熱、常に新たにされる「パウロ的精神」への無条件の忠実と不屈の楽観主義、そして信頼とが、私たちにとって良い刺激と励ましになりますように。

 パウロ神父は、「すぐにやり直すことを知る」人であった。すなわちどんな失敗の後にも、熱意をもって新たに歩みを始めることができる人であった。

 パウロ神父は私たちに「長生きしようなどと、心配してはならない」と常に諭し、「日々、受けたカリスマを真の信頼をもって熱心に生きるように」と教え、修道会の後継者を確保する唯一の方法は、「生きること」、そして「今この時を、愛と喜びをもって生きる」という自覚を持つことであると教えている。

監修者注:アルド・ガリアーノ神父は、一九五七年に司祭叙階。若くして韓国・ソウルの聖パウロ修道会に赴き、数年間パウロ・マルチェリーノ神父の右腕として活躍し、次いで彼の後継者となった。マルチェリーノ神父は一九六一年、六十歳の時、韓国に聖パウロ修道会を創立した。

ロレンツォ・バッティスタ・ベルテロ著『日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち』2020年

RELATED

PAGE TOP