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カトリック入門

第153回 教会は聖である【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

序)「使徒信条」の中で「教会は一、聖、公(普遍)、使徒継承」と宣言いたします。四つの中でも、今日は「聖」について考えてみたいと思います。

1 教会は聖である
*第二バチカン公会議の「教会憲章」39番の中で、「教会は聖であり、これを欠くことがないことを人は信仰によって信じています。事実、父と霊とともに『ただ一人聖なり』とたたえられる神の子キリストは、教会をご自分の花嫁として愛し、彼女を聖とするためにおのれを彼女のために渡し、神の栄光のために彼女をご自分のからだとして自らに結び合わせ、聖霊のたまものをもって満たされました」。したがって、教会は「神の聖なる民」であり、その成員は「聖徒」と呼ばれます。
*キリストに結ばれた教会は、キリストによって聖化されます。またキリストによって、キリストにおいて人々を聖化します。
*「教会はすでに地上において、不完全ではあるが真の聖性で飾られています。」(教会憲章48番)
*幼いイエスの聖テレジアが次のように語っています。「私は、もし教会がいろいろな異なる肢体から成り立っている一つのからだであるならば、あらゆる肢体の中でもいちばん必要で、もっとも高貴なものが欠けているはずはないと悟りました。教会にも一つの心臓があり、この心臓は愛に燃えていると悟ったのです。愛だけが教会の肢体を行動に駆り立てているのであって、万が一愛が消えるようなことがあれば、使徒たちは福音をのべるのをやめ、殉教者たちは自分の血を流すことを拒むであろうと悟りました。…私は悟ったのです。愛は、ありとあらゆる召命を含み、愛はすべてであり、あらゆる時代、あらゆる場所を包含する、一言でいえば、愛は永遠である、と。」
*「キリストは『聖にして、罪なく、汚れなく』、罪を知らず、ただ人々の罪を償うためにのみ来られたのですが、教会は自分のふところに罪びとを抱えているので、聖であると同時に常に清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのです。」教会の成員は、聖職者も含めて皆、罪びとであることを認めなければなりません。
*教皇パウロ六世の言葉。「教会が自分のふところに罪びとを抱えているとはいえ聖であるのは、教会自身が恩恵の生命しか持たないからです。教会の民が聖とされるのは、その生命により生きることによってです。もしその教会から離れるならば、罪と汚れに覆われ、教会の聖性の輝きが妨げられます。教会はこれらの罪のために苦しみ、償いを行いますが、それは教会が、キリストの御血と聖霊のたまものを通してその罪から自分の子らをいやす権能を有しているからです。」

2 聖人たち
*教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます。「聖人は、教会の歴史を通して最も困難な時期にあって、常に刷新の源、始まりとなった人たちでした。」事実、「聖性は、使徒的活動と宣教の努力の隠れた源泉、および絶対確実な規範なのです。」
*「教会憲章」65番で次のように言われています。「教会は聖なる処女において、しみもしわもない完成にすでに到達しているのですが、キリスト者は罪を克服し、聖性において成長するよう、まだ努力している段階になります。したがってマリアに目を上げます。」つまり、マリアにおいて、教会はすでにまったく聖なるものなのです。

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