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これってどんな種?

霊的な断捨離という種 年間第17主日(マタイ13・44〜52)

 不要なものを捨て、ものにとらわれずに、本当に必要なものだけで満足するというようなことを表す「断捨離」という言葉があります。同じように、私たちも霊的なの断捨離をすることもいいのではないでしょうか。

 マタイ福音書の13章は、【天の国の秘義】についてイエス様が語られています。「種蒔きの喩え」「毒麦の喩え」「芥子種の喩え」「パン種の喩え」と【天の国】とは、どのようなものなのかとイエス様は、家を出られて群衆に語られます(マタイ13・1)。では、【天の国】とは、どのようなものなのでしょうか。【天の国】とは、三位一体の主と共にいると感じられる【場】ではないでしょうか。そして、私たちが思い描く亡くなった後に行く【天の国】は、いま私たちが生きている【天の国】の状態の延長で、その状態が永遠に続くというものなのかもしれません。

 きょうのみことばは「隠された宝」「真珠の喩え」「網の喩え」そして「天の国の喩えの結び」というこれまで、イエス様が語られた【天の国】のまとめを語られた場面です。イエス様は、これまでの喩えを話された後に、その喩え話の説明されていました。しかし、きょうのみことばでは、喩えを話された後の説明はされていません。

 きょうのみことばの少し前に「イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちが近寄って……」(マタイ13・36)とあります。イエス様は、まず、【家を出て】群衆に語り始められ、そして、群衆を残して再び【家に入られ】ます。きょうのみことばで語られる【天の国の秘義】についての喩えは、群衆ではなく本当に【天の国の秘義】を理解できる【弟子】たちにだけ語られたからではないでしょうか。

 イエス様は、弟子たちに喩えを語られた後に、「あなた方は、これらのことがみな分かったか」と尋ねられます。弟子たちは、イエス様の問いに対して「はい」と答えます。弟子たちは、「天の国の秘義」について悟る恵みが与えられていたので、イエス様の問いに「はい」と答えることができたのです。(マタイ13・11)

 きょうのみことばに出てくる最初の喩えは、「畑に隠された宝」というものです。なぜ、畑に宝があったのでしょう。それは、戦争が原因だったようです。人々は、戦争が起こるとすべての家財道具を持って逃げることができません。それで宝を畑に埋めて、必要なものだけを持って逃げ、戦争が終わった後に隠した宝を掘っていたようです。ですから、きょうのみことばにある宝を見つけた人は、人々が宝を畑の中に隠していたことを知っていたのではないでしょうか。

 宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておいて、喜びのあまり、行って自分の持ち物をことごとく売り払って、その畑を買います。きっと周りの人は、なぜ、その人が【畑】を買ったのか分からなかったことでしょう。しかし、その人にとっては、「見つけた宝」は自分の持ち物をことごとく売っても善いほどの【宝】だったのです。

 次の喩えは「善い真珠を探し求める商人」の喩えです。この人は、真珠商ですからどれが高価な真珠かということが分かった人でした。きっと、この人は、いろいろな真珠の中から、最高の真珠を【見出す目】を持っていたのでしょう。この喩えは、私たちの生活の中でいま、【本当に必要なもの(こと)】を見極める目、識別する感覚が必要であると示しているようです。

 イエス様の「隠された宝」、「高価な真珠」の喩えは、「自分の持ち物をことごとく売り払う」ほど、【天の国】が素晴らしいものだと示されています。では、彼らにとって【天の国】とは、何だったのでしょうか。それは、「真実との出会い」だったのではないでしょうか。科学者や哲学者、または、芸術家や音楽家などが、追い求める【これ】というものを見出した喜びと言ってもいいでしょう。私たちにとっては、【三位一体の主】との出会いなのかもしれません。

 そして、最後の喩えは、「海に投げ入れられてあらゆる魚を捕る網」です。この網の中には、「善い魚」も「悪い魚」も一緒に入っています。おん父が海に投げ入れる網は、すべての人に対して【投げ入れる】という寛大なものなのです。ちょうど、「種蒔きの喩え」のように、私たちの次元を超えるほどの寛大な心で、私たちを包んでくださいます。しかし、おん父の網の中では居心地が悪い人もいるようです。み使いは、「正しい者たち」と、「悪い者ども」をより出します。み使いは、おん父が「投げ入れた網」の中で満足でき、平安を感じる人だけを集められ、三位一体の主との交わりに招いてくださるのです。

 イエス様は、喩えを語り終えた後、弟子たちに「天の国について学んだ学者はみな、新しいものと古いものを、自分の倉から取り出す、一家の主人に似ている」と言われます。イエス様は、弟子を【学者】と呼ばれ、弟子だけが本当に必要な【天の国】を、ご自分のように、見出すことができると言われているのではないでしょうか。

 私たちは、イエス様と出会い、【天の国の秘義】を悟る恵みを頂きました。今一度、私たちの心を振り返り【霊的な断捨離】をすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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