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信心のすすめ

実践原理──信心のすすめ(3)

 a すべての人は、使徒職に義務づけられていますし、すべての人は、何らかの形で、使徒職を実行することができます。内的生活と苦しみによる効果的な使徒職を実行でき、しかも実行しなければならないのに、実行しない人があるでしょうか。イエス・キリストの神秘体に常に結ばれていながら、社会的な自分の職務を敬虔に実行できない人が、あるでしょうか。

 b 真の使徒職は、利己主義、利益、虚栄、見せかけのためではなく、むしろ自分を与えることです。「熱心は……愛の強さから生まれ、寛大とは、厚意の実行である」。それゆえ、自分を与えることです。犠牲の精神、すなわちお金、時間、健康、尊敬などを犠牲にする精神を前提としますその犠牲は、時として、しばしば期待していた人々の側からの裏切り、批判、反対をも含むものです。「たとえ、敵が私に戦いをしかけるとしてもおどろくことはない。しかし、友人や、会食者、兄弟たちからの場合には……!」。

 c 苦行ということをよく理解しなければなりません。消極的苦行があります。犠牲によって、消耗するのではなく、熱意をかりたてるために五官を強めるべきです。ふさわしくなしとげられる使徒職は、積極的な苦行であります。エネルギーを出しおしみするのではなく、それを増進させ、神のみさかえと霊魂のためにエネルギーを使うことです。すなわち、教え、秘跡を授け、特別な使徒職、伝統的な使徒職に挺身するのです。「イエスは旅につかれたもうた」のです。

 d 真の熱心の特徴は次のようなものです。すなわち、規則、意欲的な活動、超自然的な精神です。その実行における熱心さは、位階的でなければなりません。目下は仕事を引き受け、それを継続するにあたって、長上に従属するものです。真の使徒職は、その結果によって知られます。すなわち、その結果がよいものであれば、その木もよいものです。使徒職が習慣を刷新し、霊魂をより完全なものへと高め、使徒の生活さえも改善するとき、よいものです。超自然的な精神は、神から出発し、神に支えられ、神を目ざします。司牧神学は、あらゆるわざと説教もしくはスポーツさえも、告解と聖体拝領にみちびくために役立てなければならない、つまり、罪を遠ざけ、イエス・キリストに一致させるために役立たなければならない、という規則を与えています。

ある種の使徒職

 神に属するものを思い出しておきましょう。

 a 第一で基本的なもの=召命の募集と養成。司祭職はたえてはなりません。聖体は食べ尽くされますが、イエスの現存は聖櫃の中で続けられています。召命を配慮することは、事業中の事業です。イエスの最初の使徒職は、ご自分の後継者である使徒たちを捜し、養成することでした。宣教をはじめる前に、将来の使徒たちの一団を集められました。イエスは、その公生活の大部分を彼らのそばですごされました。他の事業は、もし、働く人がいれば、行なわれるでしょう。

 b 正確に、人々、特に若い男性を目ざすこと。各個人、各家庭、市民社会、人類にとって、かくもふさわしい、崇高な教えであるキリスト教は、もっとも多くの人々、特に知的な人々から受け入れられています。私たちのために時間をさいてくれる、敬虔な人たちのグループにとりまかれることは非常にやさしいことです。しかし、それは、生活するには好都合であっても、死ぬためには、それほど喜ばしいことではありません。聖師の模範は、何か教えているでしょうか。それとも何も教えていないでしょうか。福音は、多くの人々について何を思い起こさせ、またイエスが、子どもたちを特にお愛しになったことについて、何と言っていますか。

 c 次に、敬虔な女性のための使徒職があります。その使徒職は、賢明と剛毅と高貴さを要求します。次のこと、すなわち、女性によって、人々に到着することだけを、私は思い出しましょう。教会の事業を思い起こすとき、教会は、英雄的な女性、童貞女、使徒的女性を準備すべきだとよく知っていました。姉妹を通して、兄弟と、父親たちを救うことを知っていました。妻を通して夫を救うことを知っていました。母親を通して、子どもたちを救うことを知っていました。こうして、女性は司祭的なわざに参与するものです。そして、女性は、男性にとって倫理的な真の助け手となるのです。「助け手は、自分の似たものである」。

 d 真の使徒職は、さらに、もう一つの特徴と分野を持っています。すなわち、その信仰が危険にさらされている農夫と労務者、労働者に対する使徒職です。彼らの諸権利を守らねばなりません。よく秩序づけられた社会において私たちがしばしば出会う、弱い者と貧しい者の権利を守ってあげなければなりません。彼らにも、すべての人の愛徳が行きとどかなければならないのです。というのは、イエス・キリストは、「私がうえていた時に、食物を与え……」と言って彼らを弁護されたからです。苦しんでいる人、特に恥をしのんでいる人、牢獄にある人、犯罪者に対してもそうでなければなりません。また、罪人、死に瀕している人に対しても、牧者は、あらゆる愛徳とわざを駆使しなければならないのです。初歩的な宗教教育を受けている学生の権利をも守ってあげなければなりません。そのような人は、誤った学問のために、しばしば、キリスト教的生活に敵対する環境にあり、特別な困難から守って上げなければならない人々です。

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 世界の人工は急速に増加しています。悲しいことに、カトリック信者はそれほど増加しませんし、人口の増加に比例していません。

 こうしてカトリック教会に加えられる人の数は、ますます少なくなって行きます。

 非カトリック者、仏教徒、異邦人、宗教のない人々がいます。イエスは、彼らに向かって「労苦して重荷を負える者は、すべて私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませよう」と招いておられます。

 唯一のおりの外で、牧者もなく、さまよっている羊がいます。イエスは聖櫃から慈愛にみちたまなざしと心で彼らを見守り「このおりに属していない、他の羊を持っている、彼らをも私のところにつれて来なければならない。そして一つのおり、一つの牧者となる」と招いておられます。

 私たち修道者は、私たちの責任の一部を引き受けています。たとえ主任司祭が小教区と教区の枠にはめられた責任を持っていても、修道者は、もっと広範な活動ができ、もっと一般的な事業ができるのです。また、修道者は、もっと緊急な問題のためにあるのです。私たちは、教皇とともに感じ、教皇とともに考え、教皇とともに活動しなければなりません。教皇の心を打っているものは、イエス・キリストの心と同じ、それに結ばれているのです。新しい活動のための祈りと使徒的活動をしなければなりません。

 良心の糾明:私たちは、神と霊魂と教会を、本当に愛しているでしょうか。

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 イエスは、これらのたましいをどの点までお愛しになったのでしょうか。死しかも十字架の死に至るまでお愛しになりました。イエスは、その脇腹が開かれることをのぞまれました。それは、すべての人が、その愛すべき心に、場所を見い出して入ることができるためでした。その道を示し、そこにみちびき入れる人が必要でした。これは私たちのつとめでもあります。

 たとえ、聖パウロの心が、イエス・キリストの心であったとしても(パウロの心はキリストの心)、それはパウロが、実際、その聖師の心に同化されたことを意味します。彼は、真の司祭でした! 彼は広範な使徒職、人々をさがし、彼らを救いにみちびくために犠牲、危険、牢獄を体験し、また、死刑執行人に、頭をさし出すにいたるまで、真の司祭でした。

 彼は、「キリストの受難の欠けたところを、私の体において、彼の体である教会のために補う」と言いました。

 司祭職に進んでいるみなさん、みなさんのうちに、キリストが形成されるまで、みなさんのたまものの限界内で、働き、聖化してください。

 私たちはみんなイエス・キリストの「主の刈り入れに働き人を送るよう願えむ」というまねきを聞いています。私たちは、「私たちのたましいの永遠の牧者なるイエスよ、あなたの刈り入れに、よき働き人を送ってください」とくりかえさなければなりません。

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 司牧神学の偉大な師である大聖グレゴリウスは、崇高な考えとのぞみを私たちに想起させてくれます。彼は言っています。「二種類のタレントを持っている人がいる。一方では、彼らは神についての高い知識と完徳の道の知識を所有し、他方では、隣人の救いのために、驚くべきわざを行っている」と。彼らは、このように、自分自身を聖化し、ことばと模範によって、たましいを救うのです。彼らは二つの世界で報いを得、二重の栄冠を獲得するのです。

 よく行なう人は、同時によく教える人であって、二重の報いを受けるに価いする人であります。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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