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信心のすすめ

聖体訪問(II)──信心のすすめ(34)

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

Ⅰ アウグスティヌスは、「はじめにあの肉を礼拝せずして、それをだれも食べてはならない」と言っています。聖体訪問をする人は聖体拝領へのもっともよい準備をするのです。牧者たちは、かいばおけの前で、イエスを礼拝しました。彼らは天使たちから召されてやって来、彼らのおくりものをイエスにささげ、また自分たちの心をもささげましたが、託身された神のおん子が、人間にもたらした恵みの初穂を彼らは受けたのです。
 博士たちはイエスを礼拝しました。星に導かれて東方から彼らは来たのでした。そして「ひれふしてイエスを礼拝した」(マタイ 2,11)のですし、彼らはその従順と信仰と愛のしるしとして、黄金、乳香、没薬をイエスにささげたのです。
 ナザレでは、ヨゼフと聖母マリアは、イエスを、礼拝しました。彼らは、まことの神でありまことの人であるイエスを、その小さな家の中に、ちょうど私たちが、聖堂にこもっているように持っていたのです。彼らは、丁度司祭が、聖体を運び、聖体をおさめ、聖体を顕示するように、イエスをあつかっていたのです。司祭がそのようにあつかい、礼拝していたように、マリアとヨゼフも、イエスを礼拝し、嘆願し、つぐない、感謝をささげていたのです。
 聖ペトロは「あなたは生きる神のおん子キリストです」(マタイ16,16)と言ってイエスを礼拝しました。イエスはご自分について人々はだれだと言っているか、とたずねたことがありました。その問いに弟子たちは、ある人は洗者ヨハネ、ある人はエリヤ、ある人は預言者の一人だと言っています、と答えたのでした。するとイエスは、ところであなたがたは私をだれだと言うのか、と問いかえしました。みんなのかわりにペトロは、偉大な信仰告白をしながら答えたのです。
 生まれながらの目の不自由の人も「ひれふして彼を礼拝した」(ヨハネ 9,28)のです。イエスは彼をいやしましたが、その人の信仰宣言は、会堂からの追放ということになったのでした。しかし奇跡を得た人は、淡白な人であり、誠実かつ勇気ある人でしたが、イエスがメシヤであり、神のおん子であったという啓示を前にして、大胆にもひれふして礼拝したのです。

Ⅱ 童貞マリアから生まれたまことの神であり、まことの人である祝されたイエス、師であり、世界の救い主、天の祭壇の秘跡のうちに現存しているイエス、私はあなたを礼拝します。そこであなたは、私の全能の神、あなたを捜し求める人々に、たまものを与え続ける私の恩人であり、人々とともにとどまり、恵みを見い出せる私の友であり、学ばなければならないすべての徳の模範です。

・糾明───私は、聖櫃を私の二人とない友人の家、あらゆる必要における避難所、あらゆる悩みにおける慰めと考えるでしょうか。
・決心───できるだけ多くの人を、イエスのところに案内するようにつとめよう。

『信心のすすめ-自己の聖化と人々の救いのために』アルベリオーネ神父(サンパウロ・1974年)
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し発行時のまま掲載しております。

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