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これってどんな種?

主と出会う日という種 年間第31主日(ルカ19・1〜10)

 私たちは、何かの記念日を設けています。身近なところでは、誕生日や結婚記念日などがあります。そして、その日に向けていろいろな準備をすることでしょう。同じように神様も私たちと【出会うための日】の特別な日を準備されています。もちろん、私たちは、神様といつも出会っているでしょうが、その中でもその日は、神様が前から準備された【特別な日】なのです。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が徴税人の頭ザアカイと出会われる場面です。イエス様は、譬え話で『ファリサイ派と徴税人の祈り』(ルカ18・9〜14参照)について話されましたし、その他でも時々、徴税人や罪人と言われている人と食事をしていました。このような情報が徴税人の頭であるザアカイの耳にも入って来ていたのでしょう。彼は、人々から罪人といわれている自分たちを受け入れてくださるイエス様に一度会ってみたいと思ったようです。

 そのイエス様がエリコに来られたということを聞いたザアカイは、大勢の人に紛れてイエス様を見ようとします。しかし、大勢の人垣のために、また、彼の背が低かったためにイエス様を見ることができませんでした。ザアカイの背は、確かに低かったのでしょうが、それは彼のコンプレックスだったのかもしれません。同時に、自分が徴税人という罪人であるという思いの表れと言ってもいいのかもしれません。

 イエス様の周りにいる大勢の人垣は、彼にとって大きな壁のように立ちはだかり、「自分たちは正しい人」「徴税人や罪人ではない人」という社会的な壁となってザアカイをいつも苦しめていたのではないでしょうか。それで、彼は、その人垣の中を掻き分けてイエス様の近くに行くことができなかったのかもしれません。それでも彼は、イエス様を見ようという気持は失うことがなかったのです。彼は、徴税人の頭で経済的には、豊かだったのでしょう。しかし、どことなくそれだけでは満たされないものがあることに気づいていたのかもしれません。

 彼は、先に走って行きイエス様が通られるはずにあった、いちじく桑の木に登ってイエス様が来られるのを待ちます。いちじく桑は、大きな木で幹の下の方から枝が生えていたので背が低いザアカイでも簡単に登ることができたようです。しかし、徴税人の頭で、金持ちであったザアカイが木に登るというのは、彼にとって恥ずかしい気持ちがあったのかもしれません。それでも、イエス様を一目見ようという強い気持ちがそのようにさせたのではないでしょうか。

 イエス様は、そこを通りかかって、見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」と言われます。みことばにある「そこを通りかかると」という中の【そこ】というのは、なんでもない【そこ】の場所ではなく、おん父のご計画にあった特別な場所でしたし、イエス様が言われる【今日】も、「明日」でも「昨日」でもなく特別におん父が定められた【今日】という日だったのです。さらに、イエス様が「わたしはあなたの家に泊まるつもりだ」という言葉は、「あなたの家に泊まる」ということは、「おん父が最初から決めておられたので、わたしはあなたの家に最初から泊まる予定をしていたのですよ」という特別な【ご計画】だったのです。

 イエス様から声をかけられたザアカイの喜びは「天にも昇る気持ち」だったことでしょう。今まで周りの人から罪人と蔑まれていた自分が立派な先生と呼ばれるイエス様に、声をかけられさらに、自分の家に「泊まらなければならない」と言われたのです。彼は、急いで木から降りてきて、喜んでイエス様を自分の家に案内したことでしょうし、道々いろいろな話をしながら家に迎え入れます。

 しかし、そのことを見ていた「自分たちが正しい人」と思っている大勢の人は、「なぜ、イエス様が罪人であるザアカイの家に泊まるのか。まだ、罪人ではない自分たちの所に泊まるべきではないか」と思って「つぶやき」ます。そのような心ない「つぶやき」を耳にしたザアカイは、立ち上がりイエス様に向かって「主よ、わたしは財産の半分を、貧しい人々に施します。だれかからだまし取っていたら、それを四倍にして払い戻します」と言います。ザアカイは、イエス様が罪人である自分のような所に泊まられるという「アガペの愛」に触れ、今まで心の中にひっかかっていたものが一気に表れたのではないでしょうか。もう、彼に取って「金持ち」という言葉は無用なものとなったのかもしれません。

 知恵の書には、「あなたは罪に陥った者を少しずつ懲らしめ、罪を犯すきっかけとなったものを思い起こさせ、彼らを戒められる。主よ、それは彼らを悪から遠ざけ、彼らにあなたを信じさせるためである」(知恵の書12・2)とあります。おん父は、【今日】という特別な【日】にザアカイを回心させるために準備されておられました。彼がイエス様を見ようと思ったのは、偶然ではなく、彼の中に芽生えた【回心の芽】と言ってもいいでしょう。

 イエス様は、いつも「失われたものを捜して救うために」特別な【日】に来られます。私たちは、イエス様との出会いである、「その【日】」、「その【場所】」を見過ごさないように、心を準備することができたらいいですね。

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