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カトリック入門

「カトリック入門」 第64回 萩・山口の殉教者【動画で学ぶ】

<熊谷元直>
1 洗礼
*広島市内の太田川をさかのぼると備前高松城があります。この城で生まれ育った熊谷元直は、毛利輝元の重臣として仕えるようになります。闇に包まれた戦国時代末期の1586年、熊谷は毛利軍に従い、島津氏討伐のため九州へ赴き、そこでキリシタン大名黒田たか孝たか高に出会い、彼の影響のもとで洗礼を受けます。戦時下ということもあり、さほど熱心な信仰生活は送っていませんでした。1600年の関ヶ原の戦いを境に、外様大名となった毛利輝元は、中国地方の八つの国を支配していたものの、徐々に国を失い、最後には山口と萩の二つだけになってしまいます。このころ、熊谷はキリスト教に光を見いだし、とても熱心な信仰生活を送り始めます。特に司祭不在であった教会に責任を感じ、信者たちの育成に励みました。同じ頃、「毛利家が二つの国だけになってしまったのは、自分の領地にキリシタンがいるからだ」と僧侶たちが陳情し、以来、毛利輝元はキリシタンに対する取り締まりを強化します。毛利は再三、熊谷に「信仰を捨てるように」と促しますが、彼は「捨てない」と。

2 殉教
*そのころ、熊谷は萩に自分の領地を持ち、そこに小さな教会を造って家来たちを信仰へと導き、一家も洗礼を受けます。毛利は熊谷が信仰を捨てないことに苦慮している矢先、毛利が萩城築城のために働いていた指導者が不正を働きます。毛利はその裁きを熊谷に委ねますが、人に害を加えたくない熊谷は裁きを引き延ばしていきます。それを知った毛利は、これ幸いとばかりに犯罪人を処罰せず、熊谷を処罰するように命じます。処罰の本当の理由は、熊谷の信仰の問題でした。
*ある夜、熊谷を逮捕するため、武士たちが家を取り囲みます。初めは、なぎなたを使って抵抗しますが、キリストの受難を思い、武器を捨て、縄を差し出し、「これで縛って大名の前に引っ張って行ってください」と言ったという宣教師の記録が残っています。「この侍はよくキリストの受難を黙想する人だった」とも記しています。キリストのように縛られ、萩で殉教します。1605年8月16日のことで、享年50歳でした。

<ダミアン>
1 盲人のダミアン
*熊谷の死から三日後、毛利輝元は山口教会のもう一人の支柱ダミアンを捕えます。彼は大阪の堺に生まれ、盲人でありながらも琵琶法師として、全国各地を遍路し、やがて山口に住み着きます。話が上手で、ユーモアのセンスもありました。若い時から強い性格で、僧侶と議論したこともありました。一つのエピソードとして、ある僧侶が説教していた時、ダミアンと議論になります。僧侶はダミアンを邪魔に思い、お寺から追い出して扉を閉め、中に入らないようにしました。ダミアンは扉を強く叩き、「説教を聞きたい」といったので、僧侶は根負けして、中に入れたものの、ダミアンの質問責めは続き、僧侶はとても困り果てました。

2 洗礼
*ダミアンはやがて山口で結婚し、そこで25歳の時に洗礼を受けます。その際、「ダミアン」という洗礼名をいただきました。その時から彼の心にはキリストの光がしっかりと浸透し、宣教者の一人として成長していきます。
*ある日、ダミアンは広島へ行き、宣教師のコーロス神父、「神父様、葬式の祈りを一回唱えていただけませんか」と頼みます。神父が葬式の祈りを唱えると、ダミアンは「はい、わかりました」と言って、祈りを全部暗記してしまいます。山口に戻り、信者が亡くなると、暗記した葬式の祈りを全部唱えていました。

3 殉教
*1605年8月19日、毛利は二人の役人を山口に送ってダミアンを呼びます。彼はその時宣教に出かけていましたが、家に帰って奥さんから役人のことを聞くと、「ああ、これは私を殺すためだ」と察知します。役人たちが再びやってきて、「信仰を捨てるように」と説得しますが、彼はきっぱりと断ります。それなら他の信者に気づかれないように、役人たちは「湯田で仕事があるからそちらへ行きましょう」と夜中にダミアンを馬に乗せて連行します。ところが途中でダミアンは自分の馬を止め、「これは湯田の道ではない」と行ったので、みんな驚きます。盲人のダミアンは笑いながら「盲人の私にとっては、昼でも夜でもすべての道は明るい」と。やがて処刑場に着き、馬から下りてひざまずいて祈っている間にダミアンは首を斬られました。享年45歳。

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