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カトリック入門

「カトリック入門」 第94回 平戸の聖地と集落―平戸市街と田平など―【動画で学ぶ】※レジュメ字幕付き

 世界文化遺産となった「平戸の聖地と集落」は「春日集落と安満岳」「中江ノ島」だが、せっかくなので、その周辺にある平戸市街と田平などをさるいて(めぐって)みよう。
 平戸市街には、フラシスコ・ザビエルとゆかりの深い場所がある。ザビエルが平戸を訪れたのは一五五〇年。その当時とは街並みもずいぶん違うが、面影が残っている所がいくつかある。その一つが、ザビエルが到着したと言われる船着き場。階段状になっていて、少々見落としがちだが、現在の船着き場よりも北側にある。平戸オランダ商館の裏山に位置するさき崎かた方公園には、フランシスコ・ザビエル記念碑がある。以前、この公園の近くには「聖フランシスコ・ザビエル滞在の宿跡」という記念碑があったが、最近は見当たらない。公園からは市街地や平戸瀬戸を眺めることができる。
 平戸にはザビエルの名にちなんで、平戸ザビエル記念教会がある。「寺院と教会が重なって見える風景」として、ポスターなどでも有名。この教会は一九三一年に献堂し、大天使聖ミカエルに献げられ、聖堂中央には聖ミカエルの御像が据えられている。また教会の建物を正面から見ると、左側にのみ八角塔がありゴシック様式としては珍しい非対称の景観となっている。信者さんに聞いた話だが、この教会を建てる時、資金不足に陥り、右側に八角塔を建てることができなかったようだ。非対称もまた味がある。この教会の近くには、松浦資料博物館、六角井戸などもあり、異国情緒の雰囲気が味わえる。
 平戸瀬戸をはさんで対岸にやい焼ざ罪の殉教地がある。ここからはこん紺ぺき碧の平戸瀬戸、平戸の市街地、平戸城、平戸ザビエル記念教会、崎方公園などが一望できる。この地は、カミロ・コンスタンツォ神父が殉教した場所。彼は一五七一年、イタリア南部のコセンザ村に生まれ、イエズス会に入会した。一六〇五年に来日して小倉や堺で活動したが、一六一四年、マカオに追放された。しかし、彼は日本での宣教を望み、一六二一年に再び日本に潜入。平戸、生月、佐賀などで活動し、一六二二年四月、う宇く久島で捕縛され、同年九月十五日、焼罪の丘で火あぶりの刑で殉教した。その後、信者たちが彼の遺骨を持っていかないように、遺骨は役人によって平戸瀬戸に投げ捨てられた。碑文に「カミロ神父は、だれをもうら恨まず、すべての人が幸せに、また永遠の命に生きることを願って命を捧げた。それは人間として、美しく、尊い、生と死のありようであった」と記されている。私の郷里からは車で十五分くらいの所にあり、時々この地を訪れ、いつも彼の宣教精神に励まされる。
 焼罪の殉教地から田平教会までは車で十分くらいの所にある。この地区は、一八八六年、黒島教会のラゲ神父が自費で原野を買い、黒島から三家族が移住し、さらに出津教会のド・ロ神父が原野を買って一八八七年に四家族を移住させ、次第に移住者も増え、一九一八年頃には八十戸の信徒が集まったと言われる。一八八八年に仮聖堂が建てられ、一九一四年に赴任してきたなか中た田とう藤きち吉神父の勧めでレンガ造りの教会が建てられることになるが、資金不足や種々の惨事を乗り越え、一九一八年、鉄川与助の設計・施工で完成した。教会を建てるために信徒たちはレンガを運んだり、レンガのすき隙ま間の石灰のため、貝殻を焼いて使用した。教会のレンガを見ると、その痕跡を垣間見ることができる。この教会は日本二十六聖人殉教者に献げられている。教会を手掛けた中田藤吉神父の思いとしては、この教会から二十六人の司祭が誕生することを願っていたようだ。現在、この数を超え、司祭だけでなく、この教会出身の修道者、信徒が種々の地で活躍している。また田平教会はこの近辺の中心的な教会でもあり、(郷里の)にし西こ木ば場教会ができるまでは、片道十キロほどの道のりを歩いていた。以前は前晩からミサまで断食していたので、往復するのはたいへんなことだった。そんな話を私の両親から聞いたことがあるが、「どの道を通ったら田平教会まで近道かなあ」など、それもまた楽しいコミュニケーションの時だったかもしれない。
 田平教会から車で十分の所にコロンバン会の司祭によって一九五二年に建てられたひら平ど戸ぐち口教会、車でさらに十分の所に西木場教会がある。西木場教会はフランシスコ・ザビエルが来日して四百周年を記念して一九四九年に建てられ、フランシスコ・ザビエルに献げられている。この教会には黒島教会から移住した人も多く、木造の教会。私の父や祖父母は、材木を馬車で運んだこともあり、柱一つとってもぬく温もりを感じる。平戸からは離れているために訪れる人は少ないが、個人的にはお勧めの教会である。

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