1 真福八端
*真福八端は、イエスの説教の中核をなすものです。この告知はアブラハム以来の選ばれた民になされた神の約束を踏襲するものですが、その幸せの中身を単に地上的なものではなく、天の国を享受することに向けることによって、その約束を成就させるものなのです。
*聖書の箇所
マタイ5・3~12
「心の貧しい人々は、幸いである」と翻訳されていますが、フランシスコ会訳では、「自分の貧しさを知る人は幸いである」となっています。
神の前に立った時、自分がいかに貧しいものであるかを悟って、幸いを感じる。
*真福八端は、イエス・キリストの姿を描き、その愛を映し出しています。受難と復活というキリストの栄光にあずかる信者たちの召命を表し、キリスト者の生活を特徴づける行動と態度とを明らかにするものです。苦難の中での希望をさあセル逆説的な約束であり、目には見えなくともすでに与えられた祝福と報いとを弟子たちに告げるのです。それは、おとめマリアやすべての聖人たちの生活の中で始められています。
2 希望への願望
*真福八端は、幸福への自然な願望にこたえるものです。この願望は神に由来するもので、その願望を満たすことができる唯一のかたである神が、人間をご自分に引き寄せるために、その心に植え付けられたものです。
*真福八端は、人生の目的、人間の行為の究極目的を明らかにします。つまり、神が私たちをご自分の至福にあずかるよう招いておられます。この招きは一人ひとりの人間に個人的になされているだけでなく、約束を受け入れ、これを信じて生きる人々によって構成される新しい民、すなわち教会全体にもなされているのです。
3 キリスト教的至福
*神が私たちにこの世の生を与えられたのは、神を知り、神に仕え、神を愛して、天国に至るためなのです。至福とは私たちが「神の本性」と永遠のいのちとにあずからせていただくことです。至福の状態にある人間は、キリストの栄光と三位一体のいのちの至福とにあずからせていただくのです。
*このような至福は、人間の知性と力を超えるもので、神の無償のたまものとしていただくものです。そのために、それは、神の至福に入るために人間を助けてくれる恵みと同じように、超自然的恵みと言われます。
*十戒をはじめ、山上の説教や使徒的カテケージスは、天の国に導く道を私たちに示してくれます。私たちはこの道を聖霊の恵みに支えられた日常の行いを通して一歩一歩進み、キリストのことばに養われながら、神の栄光のための実りを教会の中で徐々に結ぶのです。