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これってどんな種?

義務か愛かという種 年間第6主日(マタイ5・17〜37)

 私たちにとって「規則」とは、どのようなものなのでしょう。もし、【規則】を義務としてみる場合は、束縛される気持ちになります。しかし、見方を変えてみると私たちを守るものなのではないでしょうか。【規則】がないと人は、自分勝手な判断で物事を決めてしまい、周りとの調和は無視されてしまいます。改めて私たちの周りにある【規則】に目を止めてみるのもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様がご自分の所に集まった人々に改めて【律法】について教えられる場面です。イエス様は、「真福八端」の次に「あなた方は『地の塩』、『世の光』である」と言われてキリスト者として生き方を教えられました。そして、きょうのみことばでは、キリスト者として平和に歩むためにどのようにすればいいのかを【律法】を用いて教えられているようです。

 当時のキリスト者は、イエス様が自分たちを縛っている「律法を廃止して、もっと自由に生きるようしてくださる」と思ったのではないでしょうか。イエス様は、彼らの疑問に対して「あなた方は、わたしが律法や預言者たちを廃止するために来たと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するために来たのだ」と言われます。パウロは「神は御子をお遣わしになり、……律法の下にある人々を贖い出すためであり、また、わたしたちが神の子としての身分を受けるためです」(ガラテヤ4・4〜5)と言っていますし、「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、かつ善いものです」(ローマ7・12)と言っています。

 さらに、イエス様は、別の箇所で「律法学者やファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らの言うことは全て実行し、守りなさい」(マタイ23・2)とも言っておられます。イエス様は、律法を軽んじることなく「掟を行い、それを教える者は、天の国で偉大な者と呼ばれる」と言われたのでしょう。

 イエス様は、「あなた方の義が、律法学者やファリサイ派の人々の義に勝る者でなければ、あなた方は決して天の国に入ることはできない」と言われます。ここでいう【義】とは、おん父によっての【義】ということなので、おん父に向かう心と言ってもいいのかもしれません。律法学者やファリサイ派の人々は、いつの間にかおん父のみ旨から離れ、自分たちの都合に合わせて律法を解釈していたようです。人々は、彼らの教えを【律法】と思い込んで苦しんだのでしょう。

 イエス様は、「あなた方も聞いているとおり、昔の人々は、『殺してはならない。人を殺したものは裁きを受ける』と命じられていた。しかし、わたしはあなた方に言っておく、兄弟に対して怒る者はみな裁きを受ける」と言われます。イエス様は、【十戒】の中にある「殺してはならない」という部分をまず話されます。「殺す」というのは、人の命を奪うという最もしてはいけない行為です。私たちは、「人殺し」が犯罪ということを知っています。しかし、イエス様は、「兄弟に対して怒るものは裁きを受ける」と言われます。

 私たちは、人や社会の理不尽な行いに対して「怒り」を覚えることでしょう。【怒り】自体は、私たちの感情として当たり前のものです。しかし、イエス様が言われているのは、その【怒り】と「どのように向き合、どのように処理するか」ということではないでしょうか。私たちは、【怒り】の矛先を相手にぶつけてしまい「ばか者」とか「愚か者」と言うだけではなく、暴力や殺人まで発展してしまう傾きがあります。イエス様は、そのようにならないような危険性を回避するために人々に話されているのではないでしょうか。

 イエス様は、姦淫について話されます。その中で、「もし右の目があなたにつまずかせるなら、……もし右の手があなたをつまずかせるなら……」と言われます。イエス様は、この教えを別の場所でも使われておられます(マタイ18・5〜9参照)。このように考えますと、「目」や「手」は人をつまずかす身近な場所かもしれませんし、誘惑に陥ってしまう所なのでしょう。イエス様は、そのような小さな所、気持ちにも注意を怠らないようにと勧めているようです。

 イエス様は、【十戒】の「殺してはならない」「姦淫してはならない」「隣人に対して偽証してはならない」を取り上げて人々に話されます。その中で「あなた方も聞いているとおり、……わたしはあなた方に言っておく。……」という言葉を使われます。それは、人々が【律法】を文字通りに理解していて、「それさえ守っていればいい」と思って、【律法】を義務としてみていたからなのかもしれません。イエス様は、そのような彼らの理解を指摘され、【律法】は、おん父からの【アガペの愛】ということを伝えられたのではないでしょうか。【律法】はただの規則として捉えてしまえば、自分を束縛するものですが、【愛】として受け入れれば、周りの人をいつくしみ、平和に過ごすことができるものではないでしょうか。それはイエス様が言われた「掟を行い、それを教える者は、天の国で偉大な者と呼ばれる」という言葉のように、おん父との親しい関係となり、イエス様が言われる【成就するために来た】ということなのかもしれません。

 私たちは、おん父から頂いた【律法(規則)】を【アガペの愛】として受け入れることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

  2. そのときという種 年間第30主日(マルコ10・46〜52)

  3. 願うという種 年間第29主日(マルコ10・35〜45)

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