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これってどんな種?

小さな捧げ物という種 キリストの聖体の祭日(ルカ9・11〜51)

 私たちは、同じ数量のものを伝えるのに、ポジティブに考えるか、ネガティブに考えるかで言い方が違ってきます。例えば、何かのイベントを行うときに、会場の人数が予定の半分の入場者だったとします。ポジティブに考えると人は、「半分【も】埋まっている」と伝えますが、ネガティブに考える人は、「半分【しか】埋まっていない」と伝えることでしょう。私たちは、自分たち自身のことをどのように表すでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様がおよそ5000人の男たちに「5つのパンと2匹の魚」を増やされて満腹するまで食べさせるという奇跡を起こされる場面です。ルカ福音書の9章は、「さて、イエスは12人を呼び集め、悪霊を制し、病気を癒す力と権威を、彼らにお与えになった。」(ルカ9・1)という、12人の使徒たちを派遣するところから始まっています。そして、きょうのみことばのすぐ前には、「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちの行ったことをすべてイエスに語った。それから、イエスは彼らを連れて、自分たちだけで、ベトサイダという町に退かれた」(ルカ9・10)とあります。

 イエス様は、宣教から帰ってきた弟子たちからの報告を聞き、また、その中で体験した喜びや苦しみを分かち合ったことでしょう。それで、イエス様は、彼らの労をねぎらうために、また、人里離れたところで心を休ませるために【自分たちだけ】でベトサイダに退かれたのでした。しかし、群衆は、イエス様たちが移動したことに気づきイエス様たちの後を追ってきます。彼らは、弟子たちが宣教中で行った奇跡や福音の教えに感銘を受けてついてきた人たちだったのかもしれませんし、イエス様の噂を聞いて集まった人たちだったのでしょう。

 彼らは、それぞれ心身の病を持ち、何か霊的なことに癒しを必要としていた人、ファリサイ派や律法学者たちの教えに何か違和感を持っていた人たちだったのではないでしょうか。そのようなおよそ5000人という群衆がイエス様の後を追ってついてきたのです。もちろん、この中には、数に入っていない女性や子どもたちもいたことでしょうから、5000人以上の大群衆となっていたはずです。

 イエス様は、彼らを【迎えて】、【神の国について語り】、また【治療を必要とする人々を癒され】ます。マタイ福音書では、「イエスは舟を降りると、大勢の群衆を見て、憐れに思い、その中にいた病人を癒やされた。」(マタイ14・14)とあります。ルカ福音書には、【憐れに思い】という代わりに【神の国について語り】という言葉が入っています。そして、マタイ福音書にはない、イエス様がご自分の所に集ってきた人たちをすべて【迎え】入れられ、彼らにとって【今】必要なものをお与えになられるとともに、【神の国について語る】という【宣教】を意識し、この群衆を新しい教会という意味で描いたのかもしれません。

 日が傾きかけてきたので、弟子たちは、イエス様に「群衆を解散させてください。……わたしたちは人里離れた所にいるのですから」と伝えます。これを受けてイエス様は、「あなた方が、彼らに食べ物を与えなさい」と言われます。それを聞いた弟子たちは、「わたしたちには、5つのパンと2匹の魚しかありません。わたしたちは行って、このすべての民のために、食べ物を買って来ないことには」と答えます。彼らは、あまりにもの大群衆のために自分たちが持っている僅かなパンと魚では「焼石に水」と思って諦め、また、それだけのお金もなかったはずです。弟子たちは、自分たちの【無力さ】を実感したのではないでしょうか。

 イエス様は、「人々を50人ずつ組にして、座らせなさい」と言われます。弟子たちはイエス様が言われた通りにして座らせます。イエス様は、弟子たちが持ってきた5つのパンと2匹の魚を取られ、天を仰いで、それらのために賛美を捧げ、裂いて、群衆に配るように弟子たちにお渡しになられます。イエス様は、まず、「天を仰ぐ」というおん父への祈りを捧げられ、それらのために「賛美を捧げる」という感謝の気持ちを表します。イエス様は、これから行われる奇跡がご自分の【力(恵み)】ではなく、おん父の【力(恵み)】だということを表されます。もうすでにこの「5つのパンと2匹の魚」は、ただのパンと魚ではなくおん父からの祝福されたものとなったのです。

 弟子たちは、イエス様から渡された「パンと魚」を群衆に配ります。群衆は、弟子たちから与えられた「パンと魚」を満腹するまで食べ、さらに余ったパン切れを集めると、12籠【も】あったのです。この奇跡の場面は、【司牧者】と【教会】との関係を表しているのではないでしょうか。私たちは、ミサの中で司祭から【聖体】を受け、イエス様と一体になるというすばらしい恵みをいただきます。そして、今度はその恵みによって満たされた私たちは、周りの人と分かち合うという【宣教】を行うことができるのです。私たちは、僅かな「パンと魚【しか】」なかったのが「12籠【も】」増やしてくださるイエス様に信頼して、私たちの小さな働きをお捧げすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 小さな捧げ物という種 キリストの聖体の祭日(ルカ9・11〜51)

  2. 分け与える恵みという種 三位一体の主日(ヨハネ16・12〜15)

  3. 神の子のI Dという種 聖霊降臨の主日(ヨハネ14・15〜16、23b〜26)

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