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これってどんな種?

平和=神の国という種 年間第14主日(ルカ10・1〜12、17〜20)

 わたしたちにとって【平和】とは、どのようなことなのでしょう。きょうの「集会祈願」には、「あなたは分裂に悩む世界にひとり子を遣わし、平和と一致の道を示してくださいました」とあります。今一度、「【平和】とは何か」を考えてもいいのかもしれません。

 きょうのみことばは、イエス様が72人の弟子を宣教に遣わす場面です。イエス様は、ご自分が行こうとしているすべての町や村に、2人ずつ先に弟子たちを派遣されます。この箇所の少し前にイエス様は、ご自分の弟子になるための条件を出されました。たぶん、この選ばれた72人は、イエス様がこの人だったら弟子として派遣してもいいと思われた人たちだったことでしょう。イエス様は、彼らを【2人ずつ】選ばれて派遣されます。それは、最小限の共同体ですし、2人で助け合い、話し合いながら宣教ができると思われたのではないでしょうか。

 彼らの使命は、【神の国を宣べ伝える】ことでしたが、もう一つ、「刈り入れのためために働く人を送ってくださるよう、刈り入れの主に祈り求めなさい」とイエス様が言われたように、【召命活動】という使命もあったのではないでしょうか。人々は、弟子たちが宣教する姿を見て、また、彼らの中におられるイエス様の姿に感銘を受けて「自分もイエス様について行こう」と思うこともあったこととでしょう。ですから、弟子たちの姿は、「自分の業」というよりは、「イエスの業」を出すということが大切になってくるのかも知れません。

 イエス様は、「今、わたしがあなたがたを遣わすのは、小羊を狼の群れの中に送り込むようなものである」と言われます。小羊にとって狼は天敵です。ここでいう狼は、少し前にイエス様たちが自分たちの村に入ることを拒んだサマリア人のようにイエス様を受け入れない人たちや、イエス様を目の敵としている律法学者やファリサイ派の人々を指しているのかも知れません。

 弟子たちは、このイエス様の言葉を聞いて不安になったことでしょう。さらに、イエス様は、財布も袋、また履物も携えて行かないようにとも言われます。弟子たちは、ますます不安になったのではないでしょうか。旅をする人たちにとって、財布がないということは宿に泊まることも、日常の食べ物を買うこともできません。また、袋がないと自分たちの荷物やいただいた食べ物をしまうこともできません。履き物を携えないということは、旅の途中で履き物が壊れても換えがないということです。弟子たちにとって、イエス様が言われたことは、全てにおいておん父への【信頼】がなければ、宣教できないということを自覚するということだったのです。また、そのような彼らの姿を見て、人々がイエス様の弟子になりたいと思うかも知れません。

 イエス様は、「どこかの家に入ったら、まず『この家に平和』と言いなさい」と言われます。私たちの「こんにちは」という挨拶は、イスラエルで「シャローム(平和)」と言います。ですから、イエス様が「この家に平和」というのは、当たり前の挨拶とも取れますが、ここでいう【平和】というのは、もう少し意味が深いもののようです。イザヤ書に「見よ、わたしは平和を川のように、諸国の富を溢れる川のように彼女の方に向かわせる。お前たちは乳を含みながら脇に抱えられ、膝の上であやされる」(イザヤ66・12)とありますように、幼子が母親の乳を飲み、膝の上であやされるように、おん父の愛で満たされる状態のことのようです。このことは、まさに【神の国】と言ってもいいのかも知れません。

 イエス様は、おん父の【神の国(平和)】をその家にありますように、という「祝福」を祈りなさい、と伝えたのではないでしょうか。そして、その家に「平和の子」がいるということは、おん父の愛を充分にいただ姫、受け入れている人たちが、弟子たちの【平和(イエス様の平和)】と交じり合いさらに豊かになっていくという意味なのかも知れません。しかし、逆に彼らがおん父の、イエス様の平和を受け入れられない時には、弟子たちの所に戻ってきて、彼らを慰めるということではないでしょうか。私たちは、福音(良い知らせ)を伝えようとしても人から拒絶された時、傷ついたり怒りが込み上げたりするのではないでしょうか。イエス様は、そのような私たちをご自分の【平和】で満たしてくださると言われているのかも知れません。

 弟子たちは、宣教から喜んで帰ってきて「主よ、お名前を用いると、悪霊どもでさえ、わたしたちに服従します」と報告します。しかし、イエス様は、「……喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われます。このことは、当時の住民登録の名簿に基づく考えで、パウロが「わたしたちの国籍は天にあり」(フィリピ3・20)というように、弟子たち(私たち)が神の国の住民として認められたということのようです。

 私たちは、人々に「神の国」のことを伝えることによって、さまざまな困難と同時に多くの恵みをいただくことができます。この状態が【平和】と言ってもいいのではないでしょうか。私たちは、イエス様の【平和】を携えてみことばを伝え、共に【平和】を分かち合える【神の国】に住むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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