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これってどんな種?

ぶどう酒がありませんという種 年間第2主日(ヨハネ2・1〜11)

 食事は、一人でするよりも大勢でしたほうが楽しいし、美味しく食べることができます。それが、結婚式の披露宴などの場合は、友人や親戚などが集まりいろいろな話が弾むことでしょう。

 きょうのみことばは、『カナでの婚礼』の場面です。カナはナザレの近くにありますので、イエス様の故郷と言ってもいいでしょう。みことばは、「さて、3日目にガリラヤのカナで婚礼があり、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちもその婚礼に招かれていた。」という箇所からはじまっています。この3日目は、洗礼者ヨハネの弟子であった2人の弟子(アンデレともう1人)と、フィリポやナタネルそして、ペトロたちがイエスと出会ってからの3日目となるようです。みことばには、はっきりと書かれていませんが、もう1人というのは、ヨハネのことではないでしょうか。

 みことばでは、「母がそこにいた」とありますから、もしかしたらマリア様は、この婚礼の中で親族の家族と一緒にいろいろと準備をしていたことでしょうし、その家族との親しい関係があったのかもしれません。そこに、久しぶりに帰ってきたイエス様とその弟子たちが「婚礼に招かれた」ようです。婚礼の宴が進む中ぶどう酒が【なくなりかけます】。まだなくなってはいないようですが、思いのほか招待客が多かったのでしょうか、ぶどう酒の減りが早かったようです。マリア様は、そのことを敏感に気づかれ、給仕たちが慌てている様子をご覧になられ、「ぶどう酒がなくなってしまっては、婚礼を祝ってくださっている方々に対して失礼だ」と思われたことでしょう。また、「この家族に恥をかかせてしまってはいけない」と思われたのかもしれません。そこで、マリア様は、イエス様に「ぶどう酒がありません」と言われます。

 イエス様は、マリア様に「婦人よ、それがわたしとあなたとにどんな関係があるのでしょう。わたしの時はまだ来ていません」と言われます。この言葉は、「エッ、イエス様がどうしてこのようなことを言われるの」と耳を疑うようにも聞こえます。ヨハネ福音書の中でイエス様がマリア様に「婦人よ」と言われたのは、この箇所ともう一つ、十字架上の場面で「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)という箇所があります。このように考えると、イエス様がここで言われる「わたしの時」というのは、「十字架での死と復活の時」のことを言われているようです。ですから、イエス様は「まだ十字架の時ではありませんし、わたしが徴を行うことは、おん父のみ旨である人を贖う時なのですよ。この祝宴で『ぶどう酒がなくなりました』というあなた(マリア様)の言われることと関係がないようですが」と言われているのかもしれません。

 しかし、マリア様はそんなイエス様の言葉を聞き流されたのか「母は給仕たちに『なんでもこの人の言う通りにしてください』」と言われます。この箇所は、マリア様がイエス様のことを信頼されておられる様子が描かれているのではないでしょうか。イエス様が困った顔をされている様子や、それを尻目にしてマリア様が給仕たちを呼び集めている様子を想像できるかもしれません。子どもの頃、父に家族の中で何かを頼めず母に頼み、母がわたしの願いを父に伝えていたのを思い出します。マリア様は、母親として私たちの願いをイエス様に取り次いでくださるお方といってもいいでしょう。

 イエス様は、ユダヤ人の清めに用いる石の水瓶が6つあるのをご覧になられ、給仕たちに「水瓶に、水をいっぱい入れなさい」と言われます。この「清めに用いる石の水瓶」と言うのは、ユダヤ人が神との関係をふさわしいものであるように、体を清潔にするための宗教生活上の水瓶だったようです。不思議なものでイエス様がその【水瓶】を使われたのは、私たちが自分たちの罪を清め、おん父の方に向かうためにこの【徴】を行われたようにも思われます。さらに、「水をいっぱい」というのは、おん父のお恵みの豊かさを表しているのかもしれません。

 イエス様は、給仕たちに「さあ、それをくんで、宴会の世話役の所に持って行きなさい」と言われます。もしかしたら、この給仕たちというのは、イエス様の福音を伝える、私たち一人ひとりと言ってもいいのかもしれません。私たちは、洗礼の恵みを頂き、イエス様の満ち溢れる愛を人々に伝えるという使命があります。そう考えますと、この祝宴は、私たちの日常の場であり、イエス様が私たちの日常の場に【共に】いてくださって、私たちに「さあ、福音を伝えなさい(くんで持っていきなさい)」と言われているのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、マリア様がイエス様に「ぶどう酒がありません」という頼みから始まり、それを受けてイエス様が徴を行いますが、その中にはおん父の働きがあったことでしょう。そして、水瓶いっぱいに水を貯め、世話役の所に持っていくという給仕である私たちの働きがあって、祝宴が喜びに包まれます。私たちは、日常の生活の中でマリア様、イエス様、そしておん父を身近に感じて信頼のうちに、【祈り、願う】とともに、福音を伝えることができたらいいですね。

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