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これってどんな種?

イエス様を知るという種 年間第2主日(ヨハネ1・29〜43)

 私たちは、自分がどのくらい周りの人に分かってもらえているのでしょうか。例えば、家族や友人、学校や会社の人、隣近所の人などが【私】のことをどのくらい分かっていて、信じてくれているのでしょうか。時々、「あなたとは長い付き合いだからなんでも知っている」という言葉などを耳にしますが、私の心の中まで知っているのか、という疑問を持つ方もおられることことでしょう。

 では、私たちはイエス様のことをどのくらい分かっているのでしょうか。イエス様は、私たちのことを全てご存知ですが、私たちは時々、イエス様を自分の都合に合わせて、分かっていると思っていないでしょうか。もっと、私たちはイエス様を知るようになればいいですね。

 きょうのみことばは、洗礼者ヨハネ(以下ヨハネと記します)の所にイエス様が来られ洗礼を受けられる場面(です)。ヨハネ福音書では、他の共観福音書のようにしっかりとした形でイエス様が洗礼を受けられる場面はありません。ですから、はきりときょうの箇所でイエス様が【洗礼】受けられたとは言えませんが、文脈の中で受けたのではないかと思われるのです。

 きょうのみことばの前に、ヨハネが祭司やレビ人に「あなたはどなたですか」と質問され、それに対してヨハネが答えている場面が描かれ、さらにその結びの節では、「ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった」(ヨハネ1・28)とあります。そして、きょうのみことばは、「その翌日」という言葉から始まっています。もしかしたら、きょうの箇所は、ヨハネが祭司やレビ人と問答をした「翌日」と言ってもいいのかもしれません。ヨハネは、この日も人々に洗礼を授けていたのではないでしょうか。

 ちょうどその時、ヨハネは自分の所に洗礼を受けに来られるイエス様を見て「見るがよい。世の罪を除く神の小羊だ。」と言います。ヨハネの周りには、彼の弟子たちやヨハネのもとに洗礼を受けに来た人たち、もしかしたら祭司やレビ人もいたのかもしれません。

 この箇所でイエス様がヨハネの所に「来られた」というのは、イエス様が歩いて「来られた」というように思えます。さらに、もう少し深く見ていくと「み言葉は人間となりわれわれの間に住むようになった」(ヨハネ1・14)とありますように、神であり、人であるイエス様が「私たちを救うため、再び私たちをおん父の所に引き上げるために」にヨハネの所に【来られた】と見ることができるかもしれません。そのように見てみますとヨハネの「世の罪を除く神の小羊だ」という言葉は、当時のヨハネの周りにいた人たちだけではなく、今の私たちへのメッセージとして受け取られるのではないでしょうか。

 ヨハネは、「『わたしの後から一人の人が来られる。……わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」と再び(ヨハネ1・15参照)自分がイエス様を証しするために来たことを人々に伝えます。ただ、ヨハネはイエス様よりも先に生まれていますので、この【先に】ということは、違和感を覚えてしまいますが、「初めにみ言葉があった」(ヨハネ1・1)とありますように、ここでは、時間的な【先に】ということではなく、おん父のご計画の中でという意味が含まれているのではないでしょうか。

 続けて、ヨハネは「わたしもこの方は知らなかった」と言います。この言葉は、きょうの箇所で2度使われています。私たちは「えっ、どうして。知らないのだろう」と思うかもしれません。ヨハネ福音書の中で「知る。見る。聞く」という言葉の中に私たちが普段使っているものと少し違う【心の目】【信仰の目】を使って深くイエス様と向き合う時にこのような使い方をしているようです。ですから、ここでヨハネがイエス様を「知らなかった」と言ったのも、【神の子であるイエス様のすべて】を「知らなかった」という意味ではないでしょうか。

 ヨハネは、「わたしは、霊が鳩のように天から降り、この方の上に留まるのを見た」と言います。さらに、この少し後に「……わたしをお遣わしになった方が『霊がある人の上に降って留まるのを見たら、その人こそ聖霊によって洗礼を授ける者である』」と言っています。ヨハネは、人々に【悔い改めの洗礼】を授けるという使命もありましたが、ここで「イエス様を証しする、洗礼を授ける」というおん父から遣わされた大切な使命を果たすことができたのでした。そして、今まで【知らなかった】イエス様のことを【知った】のではないでしょうか。

 ヨハネは、「わたしはそれを見た。それでわたしは、この方こそ神の子であると証ししているのである」と言います。ここの箇所でも【見た】とありますから、ただの視覚での「見る」ではなく、おん父からの言葉とヨハネの所に【来られた】イエス様と出会うことでヨハネは心から確信して【見て】「神の子であると証しする」ことができたのでしょう。

 私たち一人ひとりは、イエス様を証しするという使命をおん父からいただいています。私たちは、もっとイエス様を【知りながら】、聖霊と共にこの使命を果たすことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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