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これってどんな種?

神の前で豊かになるという種 年間第18主日(ルカ12・13〜21)

 ユーモア集に「自分は天国に行けるかと心配していた司祭が、守護の天使に尋ねます。数日後守護の天使が現れて『良い知らせが2つあります。最初の良い知らせは、あなたは天国に行けると言うことです』と伝えます。司祭は『第2の知らせは何ですか』と守護の天使に尋ねます。守護の天使は『第2の良い知らせは、神さまから召されるのが、明日だと言うことです』」と言う話がありました。私たちは、いつ【天の国】に召されるかわかりません。ですから、いつも主に向かって、感謝の日々を歩んで行きたいものですね。

 きょうのみことばは、「豊作物を自分の倉に納めた『愚かな金持ち』」の譬え話です。群衆の一人がイエス様に「先生、遺産をわたしとわけるよう、兄弟におっしゃってください」と言いうところから始まっています。当時は、父親が死んだ後、兄が財産を自分のものにすることが多かったようです。ですから、『放蕩息子』の譬え話では、弟が「お父さん、わたしがもらうはずの財産の分け前をください」(ルカ15・12)と父親が亡くなる前に言ったのも兄が財産を自分のものにしないためだったのでしょう。

 イエス様は、彼を責めることはせずに「友よ、誰が、わたしをあなた方の裁判官、または仲裁者に立てたのか」と答えられます。当時の人々は、ラビや律法学者に相続の相談をしていたようです。しかし、イエス様は彼の願いを叶えることなく「人々に向かって『あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい』」と言われます。イエス様はまず「あなた方の」と彼に言われていますので、そこに集まっていた群衆の中にも同じような相談を持ちかけようとしていた人がいたのかも知れません。それで、イエス様は周りの人たちに注意を促すように「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい」と言われたのでしょう。

 イエス様のこの言葉は、私たちも油断するといつの間にか陥ってしまう危険性があるのではないでしょうか。私たちが生きる中である程度の財産は必要ですが、そこに固執してしまうと、周りが見えなくなってしまいます。イエス様は、「人の命は、財産の多さによるものではないからである」と言われます。イエス様が言われている【命】というのは、私たちが生きているという【命】ではなく「永遠の【命】」のことを言われていると言ってもいいでしょう。

 イエス様は、「ある金持ちの畑が豊かに実った」というように豊作に恵まれた金持ちの譬え話を人々にされます。その金持ちは、既存の倉に納めることが出来ないほどの収穫に困惑して、さらに大きな倉を建てます。聖書の中で【富】というのは、主なる神からの恵みとされていました。

 彼はその恵みを自分だけのものに使おうと思ったのです。彼は、「そこに穀物や貴重品を全部しまっておこう」と言います。彼は、せっかくのおん父からの恵みを使わずにしまってしまいます。私たちは、一つのものを手に入れると、また、別のものを欲しくなってしまう傾向があります。それは、目に見える財産だけではなく、時間、知識、能力、功績、権力、名誉など満足することなく「もっと欲しい」という欲が出てきます。イエス様は、そんな私たちの弱さに対して「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい」と言われているのではないでしょうか。

 さて、おん父はこの金持ちに対して「愚か者、今夜、お前の命は取り上げられる。そうすれば、お前の蓄えた物は、いったい誰のものになるのか」と言われます。この【愚か者】というのは、知的、能力的に劣っている人のことではなく、神から離れている人、神に近づこうとしている人を揶揄する人のことを表しているようです。彼は、あたかも豊作物や財産を自分の力で蓄えたと思い、それを自分のためだけに楽しもうと思ったのです。そんな彼の【貪欲】な思いに対して神は、【愚か者】と言われたのです。

 コヘレトには「どんなに人が知恵と知識と才能とを持って労苦しても、その成果を、何も労苦しなかったほかの者に残さなければならない。これも空しく、非常に悪いことだ」(コヘレト2・21)とあります。コヘレトの中にある【空しい】というのはただの「空しい」ではなく【最も空しい】という意味のようですので、自分の功績などの全ての恵みを自分が死んだ後に、他の人のものになることの【空しさ】を嘆いてしまう人の弱さを示しているようです。ただ、そのような【空しい】自分を見つめ、認めたうえで主なる神に感謝するようにと導いているのではないでしょうか。

 イエス様は「神の前に豊かにならないものは、このようになる」と言われます。では「神の前で豊かになる」とはどのようなことでしょうか。パウロは「この、地上のものではなく、上にあるものに思いを馳せなさい」(コロサイ3・2)と言っています。イエス様は、「あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10・20)「父の国を求めなさい」(ルカ12・31)とか「宝を天に蓄えなさい」(ルカ12・33)と言われます。私たちは、【愚か者】というエゴにとらわれることなく、周りの人にアガペの愛の奉仕する中でおん父のもとへ行くことが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

  2. 本質を見るという種 年間第14主日(マルコ6・1〜6)

  3. 触れるという種 年間第13主日(マルコ5・21〜43)

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