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これってどんな種?

おん父へ向かう修行という種 年間第8主日(ルカ6・39〜45)

 私たちは、それぞれ良いところと、そうでないとことを持っています。元気な時、疲れている時、落ち着いている時、ざわついている時など感情もいろいろと変化していきます。でも、もっと深い心の状態はどのようなになっているのでしょう。静かに振り返ってみるのもいいかもしれません。

 きょうのみことばは、自分にも欠点があるのに人の欠点を注意する弱い私たちをイエス様が指摘している場面です。イエス様は、ご自分の所に集まってきた群衆に対して話されています。その中には、12人の使徒たちの他にイエス様について行こうという人がいたことでしょう。もちろん彼らは、イスラエル全土から来て、イエス様の教えを聞いて心から信仰が燃えている人、あるいは、イエス様に癒やされてそのまま留まった人などいろいろな人がいたのではないでしょうか。

 イエス様は、そのような人に「盲人が盲人を道案内できるだろうか。2人とも穴に落ちないだろうか」と言われます。彼らは、もう、自分はイエス様についていっているから他の人と違う、と思っていたのではないでしょうか。イエス様は、そのような傲慢な傾きにある弱さを注意されているのかもしれません。この【道案内】をしようとしている人は、自分が盲人であると自覚していないという、とても不思議な喩えをイエス様は語られておられます。イエス様が言われる【道案内(者)】は、弟子たちのことを指しているようです。ですから、イエス様は、「【道案内】をする人(弟子)は、しっかりと見える【目】を持っていなさい」と言われているのではないでしょうか。

 目がいい人は、周りの景色を見ることができますし、道案内するために必要な状況を察知することもできます。もちろんイエス様が言われるのは、肉体的な【目】というわけでなく、【心の目】のことを言っておられます。イエス様は、ご自分の弟子になるためには、【心の目】を養ってくださいと教えているのではないでしょうか。イエス様が「修行を積めば、その師のようになる」と言われるのは、日々の生活の中で【主なる神】を意識すること、感じることが大切なのですよ、と言われているような気がいたします。

 私たち一人ひとりは、おん父から愛されて創られた「神の子」なのです。しかし同時に、肉体を持った弱い生身の人間でもあります。私たちは、日々の生活の中で忙しさ、周りのざわつき、または、さまざまな誘惑によっておん父のことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。そのような時、「あっ、今おん父から離れていた」と気づくことを意識する習慣を養うことが大切なのかもしれません。

 きょうの『集会祈願』に「ここに集められた一人ひとりに聖霊を注いでください。きょう語られるみことばが、わたしたちを導く光となりますように」とあります。聖霊は、「私たちがいつの間にかおん父から遠ざかっている」ということを気づかせてくださり、おん父の方へと導いてくださいます。イエス様が言われる【修行】は、私たちが聖霊の助け、導きに耳を傾け、おん父の方に向かうということではないでしょうか。私たちは、習い事をするとき何度も反復して練習し、習慣化することで意識しないでも身についたものが自然と出てくることことを目標とします。私たちの習い事の目標は、おん父を感じ気づくことを習慣化することで、おん父の愛が自然に生活の中で出てくることではないでしょうか。

 イエス様は、「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ、あなたの目にある丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ずに、どうして、兄弟に向かって『兄弟よ、あなたの目にあるおが屑を取り除かせてくれ』と言えるだろうか」と言われます。このイエス様の言葉は、私たちが陥りやすい弱さではないでしょうか。私たちは、どうしても人の欠点が目につき、それを修正しようとする傾きがあります。または、困っている人を見るとその人のために【よかれ】と思って手を差し伸べるということもあります。それは、自分が「この人を導かなければ」という「私が」という傲慢さの表れなのかもしれません。

 イエス様は、そのような人の弱い傾きをご存知なので「まず自分の目から丸太を取り除きなさい」と言われます。イエス様は、私たちに「自分の丸太は見ずに」と言われ、なかなか自分の欠点を認めない「私」があることに気づかされ、そしてさらに、その「丸太」を取り除く作業をすることを勧められます。この作業は、聖霊の助けと、謙遜な心がないとできないと言ってもいいでしょう。自分の欠点に気づき、周りのことがはっきり見えるようになると、「目が見える【道案内(者)】となることができるのです。

 イエス様は、「善い木は悪い実を結ばず、悪い木は善い実を結ばない。……口は心に溢れることを語るものである」と言われます。私たちは、「今の私の心は何で満たされているのか」を振り返ってみるのもいいのかもしれません。そして、日々の生活の中でおん父に近づく【修行】をしながら、私たちの心をおん父の愛で満たし、周りの人におん父の愛を語ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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