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これってどんな種?

正しい人という種 待降節第4主日(マタイ1・18〜24)

 私たちは、映画やテレビを観るように「こんな夢を見よう」と思って夢を選ぶことはできません。私たちが寝ている時の夢は、全くの受け身というわけです。ときどき、私たちの中にあるストレスや大きな心配となどがある場合は、それに関係することが夢として現れることがあるかも知れません。ですから、きょうのみことばにあるように、ヨセフが見た「主の使いが夢に現れて告げられる」というのも全くの受け身と考えてもいいのかも知れませんが、それほどヨセフ様は、マリア様の懐妊を困惑されていたのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、天の使いがヨセフ様の夢に現れて、「恐れずに、マリアを妻として迎え入れなさい」という場面です。みことばは「イエス・キリスト誕生の次第は次の通りである」という言葉から始まっています。そして、その前にはアブラハムからダビデ、ダビデからヨセフへと綴られている長い系図が書かれています。このことは、イエス様が、イスラエルの父と言われる【アブラハム】から始まり、【ダビデ】を経て【ヨセフ】の子になってお生まれになられる、ということを示しているのではないでしょうか。この1行だけで、イエス様が【ダビデ】の子孫であり、おん父が約束された【救い主(メシア)】であるということを伝えていると言ってもいいのかも知れません。

 みことばには「夫ヨセフは正しい人で」とありますから、ヨセフ様は、マリア様が同居する前に【聖霊によって身籠っている】ことに気づかれたのではないでしょうか。この【正しい人】というのは、私たちがいう「清廉潔白」というように、何も悪いことをしない人という意味ではなく、【神に対して忠実な人】という意味があるようです。ですから、ヨセフ様がマリア様の懐妊に気づいたのは、「人間の業だけでない何か特別な神の働きが起こっている」と感じたからではないでしょうか。

 もしかしたら、ヨセフ様は、「自分のような者が神の介入から生まれてくる子の父になれるのだろうか」という畏れもあり、同時に、神の介入ということを知らない人にとっては、マリア様が姦淫の咎を犯したということで石打ちの刑にされるという思いもあったのかもしれません。それで、ヨセフ様は、ひそかに離縁しようと決心したのでしょう。

 ちょうどその時に、主の使いが夢に現れ「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎え入れなさい。彼女の胎内に宿されているものは、聖霊によるのである。」と告げられます。主の使いは、ヨセフ様がマリア様と離縁しようと【決心】するまで待っていました。このことは、私たちの【識別】ということに似ているかもしれません。おん父は、最初から「あなたはこのようにしなさい」と答えを出さず、あくまでも、私たちの気持ち寄り添われるお方です。ですから、ヨセフ様が悩んだ末に決心したその頃合いで夢に現れたのではないでしょうか。

 主の使いは「恐れずに」と言われます。この中には「不安がらずに」という意味もありますが、「大切な使命(召命)ですよ」という意味もあるのではないでしょうか。ヨセフ様がダビデの子孫であり、マリア様を妻として迎え入れることでイエス様が【救い主】としてお生まれになるということを示しているのかもしれません。また、マリア様の懐妊がはっきりと【聖霊】によるものであることを伝えています。このことで、ヨセフ様は正しい人だったので、まだはっきりしないのにも関わらず、【神の業であると確信】され、それを後押しするように、主の使いは「聖霊によるのである」と言われたのではないでしょうか。

 主の使いは「彼女は男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。その子は民を救うからである」と言われます。主の使いは、ヨセフ様にマリア様の胎内の子が【聖霊】によるもの、そしてその子が民を救うという【救い主(メシア)】であるとヨセフ様に伝えます。ことわざでも「名はたいを表す」という言葉がありますが、主の使いが告げた「イエスと名づけなさい」というのは、【イエス】がただの【名前】ではなく、【メシア】としてお生まれになられるということを表しているのではないでしょうか。

 みことばには、イザヤ書を用いてイエス様のことを「……インマヌエルと呼ばれる。この名は、『神はわたしたちとともにおられる』という意味である」と示しています。イエス様は、今もこれからもいつも【私たちと共におられる】お方なのです。ここには、おん父の「アガペの愛」があり【平安】があるのではないでしょうか。

 ヨセフ様は、目が覚めると、主の使いが命じたとおり、彼女を妻として迎え入れ、生まれてくる子を【イエス】と名づけます。ヨセフ様の苦しみをご存知であったマリア様もきっと喜ばれたことでしょう。ヨセフ様は、いつもおん父の働きを【敏感】に感じる方で【正しい人】でした。ですから、【夢】をただの「夢」とするのではなく、「神の介入」と感じそれを【忠実に実行】されたのです。私たちもヨセフ様と同じように、日常の中に【三位一体の働き】を感じ、それを【忠実に実行】することができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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