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これってどんな種?

心から耳を傾けるという種 年間第4主日(ルカ4・21〜30)

 私たちは、人と会話をしていてもその人への先入観が邪魔をして素直に聞くことができない場合があります。または、表面的なその人の言葉を聞き鵜呑みにして相手の心の言葉を誤解してしまうこともあります。その人が何を言わんとしているのかを心の耳を傾けて聞くことが来たらいいですね。

 きょうのみことばは、イエス様がナザレの会堂でイザヤ書を朗読した後に「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日、成就した」と話された後の出来事で、ナザレの人々がイエス様のみことばの真意を理解できずイエス様を町の外に追い出し崖から突き落とそうとする場面です。

 ナザレの人々は、イエス様がカファルナウムでさまざまな教えや奇跡をしていたことを知っていました。それでイエス様がイザヤ書をお読みになられ、「この聖書の言葉は、あなた方が耳にしたこの日、成就した」と言われた後、子どもの頃から知っているイエス様が、威厳に満ちた言葉を話されることに対して、イエス様をたたえて、その口から出る、恵みに満ちた言葉に驚きます。そして、そのイエス様が言葉だけで終わるはずはない、自分たちの前でも何か奇跡を行うのではないかと思ったのでしょう。

 彼らは、イエス様が話しの中に他の人にない何か「ありがたい感じ」を受けたのではないでしょうか。みことばには、「その口から出る、恵みに満ちた言葉に驚いて」とありますので、イエス様の言葉に【恵み】を感じたのです。しかし、彼らはイエス様が何を言おうとしているのかという【真意】を読み取ることができなかったのです。彼らは、「これは、ヨセフの子ではないか」と言います。この言葉の裏には、「大工であるヨセフの子イエスがこんなに立派なことを話すなんて」と多少蔑みの意味が含まれていたのではないでしょうか。

 ナザレの人たちは、イエス様の話された「主の霊がわたしの上におられる。……主がわたしに油を注がれたからである。」と言われた意味がわからなかったのです。彼らは、イエス様が、「わたしが、あなた方が待ち望んでいたメシアなのですよ」と言ったにも関わらず、そのことを理解できず、イエス様を【ヨセフの子】という【人の子】としてしか見ることができなかったのです。このことは、私たちにも言えることなのかもしれません。イエス様は、「わたしがあなた方のうちにいる」(ヨハネ14・20)と言われるように、私たちの中にはイエス様がおられるのです。そして、私たちはそのイエス様の恵みをお借りて人々に話したり、何かを行ったりすることがあるのではないでしょうか。しかし、周りの人は、そのイエス様の働きに気がつくことができず、【その人】の行いとして見たり聞いたりしてしまいます。ですから、「あの人が言うことだから」と頭から否定的な感情が先に出てしまう場合もあります。私たちは、先入観が邪魔をして相手の上辺だけが目に入り、どうしてもその人が何を言おうとしているのか、ということを見逃してしまうことがあります。このことは、とても残念なことではないでしょうか。私たちは、相手の中におられるイエス様の言葉、行いを理解できるように静かな心を持つことができたらいいですね。

 さて、ナザレの人々は、イエス様が話されたことに感銘を覚えますが、さらに「何か奇跡」を望んだのではないでしょうか。イエス様は、彼らの心の中を察知され「あなた方はきっと、『医者よ、まず自分自身を治せ』ということわざを引いて『カファルナウムで、いろいろなことをしたと聞いたが、故郷でも行え』というだろう」と言われます。ナザレの人々は、イエス様の言葉だけでは満足できないばかりか、カファルナウムで行った奇跡よりももっと多くの、より素晴らしい奇跡を期待していたのでしょう。

 しかし、イエス様の奇跡は、「奇術」ではありません。イエス様が奇跡を行われる時には、必ずおん父の働き、恵みがそこにあるのです。ですから、イエス様は、そのことを人々に気づかせるために、エリアがイスラエル人のためではなく、異邦人土地であるシドン地方のサレプタのやもめを癒したことや、異邦人であるナアマンを癒したことを話されます。このことは、おん父のいつくしみの愛が異邦人にまで及んでいることを示されたのではないでしょうか。しかし、会堂にいる人々は、そのことを自分たちのことを揶揄(やゆ)されたと勘違いして、憤り、立ち上がって、イエス様を町の外に追い出して、町が建っている山の崖まで連れて行って突き落とそうとします。

 彼らは、イエス様が「……あなた方が耳にしたとこの日に、成就した」という言葉の【真意】を理解できないばかりか、「預言者は、自分の故郷では理解できないものだ。」という言葉も理解できなかったのです。私たちは、イエス様の言葉の【真意】を理解するためには、謙遜さ謙虚な心がいるのではないでしょうか。

 きょうのミサで司祭は「あなたの声に素直に心を開くことができますように」と集会祈願で唱えます。私たちは、きょうのみことばを味わいながら、私たち一人ひとりの中におられるイエス様の言葉、行いを謙遜な心で耳を傾け、理解できるように祈ることができたらいいですね。

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