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これってどんな種?

弱さからの救いという種 受難の主日(枝の主日)(マタイ27・11〜54)

 私たちは、時々自分の弱さに対して嫌になる時があるのではないでしょうか。「自分というものが見えず、人の意見に左右され、意に返さない方を選んでしまう」、「悪いこととわかっていても罪を犯してしまう」という悩みが出てくることはないでしょうか。そのような時、「私の弱さ」を振り返って【私を認め】、もう一度イエス様に「私を憐れんでください」と祈ることができたらいいですね。

 きょうのみことばはイエス様のご受難の場面です。イエス様は、ゲッセマネで弟子であったユダの裏切りによってユダヤ人たちに捕らえられ、さらに、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、決してあなたを知らないとは言いません」(マタイ26・35)と言ったペトロから否認され、祭司長や民の長老たちに引き渡されます。祭司長や長老たちは、イエス様を【どのようにして殺そうかと協議】して縛って総督ピラトに引き渡します(マタイ27・1〜2参照)。ここに、人間の弱さ、エゴ、残酷さが凝縮されているように思えます。

 きょうのみことばは、イエス様がこのように精神的にも肉体的にも疲れ、孤独のうちに、総督ピラトの前に引き出されたところから始まっています。総督は「お前はユダヤ人の王か」とイエス様に尋ねます。この問いは、イエス様が最高法院での裁判中に「お前は神の子、メシアなのか」(マタイ26・63)という大祭司の質問に「あなたの言うとおりである」(マタイ26・64)と答えられたことを踏まえた質問のようです。

 イエス様は、「それは、あなたが言っていることである」とお答えになられます。祭司長や長老たちも、また、総督も【メシア】や【王】ということに対して「人間」の立場で考えているようです。私たちの考えや知識は、限界がありますのでどうしても真理に到達することができず、自分の秤で物事を考えてしまう傾向があります。ユダヤ人や総督にしても自分たちが思っている【メシア】や【王】という考え方は、イエス様が示されるものとはかなり違っていたのです。

 総督は、ユダヤ人たちの妬みの故にイエス様が引き渡されていることを知っていたので、なんとかして助けたいと思い、当時の習慣であった囚人の一人を釈放することで、「バラバ」という囚人とイエス様を群衆に選ばせようとします。しかし群衆は、祭司長や長老に「バラバを釈放し、イエスを殺すことを願うように」と説き伏せられていので、「バラバを」と答えます。

 群衆は別にイエス様に対して、悪意を抱いていた人たちではなく、むしろ「ダビデの子にホサンナ。主の名によって来られた方に祝福があるように。いと高き所にホサンナ」(マタイ21・9)と言ってイエス様と一緒にエルサレムに入った人たちや、イエス様から癒された人たちだったのかもしれません。しかし、人の弱さは悲しいもので、どうしても周りに流され自分を守ってしまい「バラバを」と口にしたのでしょう。イエス様は、弟子たちだけではなく、人々からも裏切られたのでした。

 イエス様は、総督の兵士たちから、赤いマントを着せられ、茨の冠をかぶせられ、そして葦の棒を持たされます。そして「ユダヤ人の王さま、万歳」と言われ、なぶりものにされ、つばを吐きかけられます。イエス様は、このようななぶりものにされても、それを甘んじて受けられます。それは、【メシア】としておん父のみ旨を果たすためでした。さらに、ただそこに居合わせたキレネ人のシモンにご自分の十字架を担わすことになったのです。このことは、私たちがイエス様と共に十字架を担うということを意味しているのではないでしょうか。

 イエス様は十字架につけられます。人々は頭を振りながら(侮辱する仕草)「……もし神の子なら、自分を救ってみろ」とイエス様に対して言います。この言葉は、荒れ野でサタンがイエス様を試みた「もしあなたが神の子なら」(マタイ4・3、6)という場面を思い出させます。この言葉は、サタンが人々の口を借りて言わせていたのかもしれません。この箇所は、「サタンが私たちの口を通して周りの人を傷つける」ということに対して注意をしているのではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分の最期が近づいたことを知り「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われます。きょうのみことばでイエス様は、総督に「それは、あなたが言っていることである」と言われた後は、この言葉を言われるまで全くの沈黙を通されていました。イエス様は、パウロが言うように「キリストは神の身でありながら、神としてのあり方に固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、……その姿は人間であり……」(フィリピ2・6〜9)とありますように、真の神の子として生涯をおん父のみ旨に忠実に歩まれるとともに、人の子としても生きられました。イエス様の十字架上での苦しみは、【神の子】と【人】の最たるものだったのではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分の十字架上の死を通して、また、聖所の垂れ幕を裂かれ、私たちを贖われてくださいました。私たちはイエス様の受難を黙想するとともに、私たちの弱さから犯す罪、意識することなく犯した罪の苦しみを、イエス様のおん苦しみと共にお捧げすることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. つまずきという種 年間第26主日(マルコ9・38〜43、45、47〜48)

  2. 幼子を受け入れるという種 年間第25主日(マルコ9・30〜37)

  3. おん父のみ旨という種 年間第24主日(マルコ8・27〜35)

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