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カトリック入門

「カトリック入門」 第66回 天草の殉教者【動画で学ぶ】

<アダム荒川>
*1614年1月、天草の志岐(しき)の主任司祭ガルセス神父が追放され、60歳を過ぎたアダム荒川に信徒たちの世話が委任されます。彼は司祭不在の中で、勇気をもって使命を果たしていきました。

1)生い立ち
*彼の名前は、彼の出身である有馬の荒川に由来するといわれます。
 1554年頃、城下町の荒川に生まれ、洗礼を受け「アダム荒川」と呼ばれました。
*少年時代、有馬晴信の弟に仕えていましたが、自分が犯した過ちのために殺されそうになります。幸い有馬のコレジオの院長であったモーラ神父(イエズス会)のとりなしによって、命を救われます。その後、イエズス会の修道院で働きました。
*1591年頃、島原半島の八良尾(はちらお)に、さらには天草にセミナリオが移転し、アダム荒川も一緒に移動します。

2)宣教師たちの追放
*1614年、有馬をはじめ、天草から宣教師たちが追放されます。その当時、天草全島には15,000人くらいの信者がいました。宣教活動が波に乗っていた時代だけに、宣教師たちの追放は大きな痛手でした。あわただしくマニラやマカオへ移動する宣教師たち。
*宣教師たちが不在になる時、アダム荒川は宣教師たちから信徒を支えるように託されます。それまでにも彼は全身全霊で司祭たちに奉仕していました。宣教師たちも彼に信頼し、彼を修道院に住まわせ、給仕、門番など、種々の仕事を与えていました。宣教師たちが旅立った後、アダムが対応できたのは、ふだんから緊急時の洗礼や葬儀、幼児洗礼の方法、病人への見舞いなどを宣教師とともに関わっていたからです。まさに教会の生きた奉仕者でした。

3)アダム荒川の働き
*宣教師を追放したものの、天草の領内で変化の兆しが見られませんでした。番代の川村四郎左衛門は、志岐の信者たちの背後にアダム荒川がいることに気づきます。彼をつぶさない限り、キリシタンたちの棄教は難しいと判断しました。当初、厳しい取り締まりは考えていませんでしたが、一向に変化の兆しがないのを見かねて、アダム荒川を捕えることにします。アダム荒川は、いよいよ自分の殉教の時が来たというので、自分で名乗り出ていきます。川村はアダムに棄教を迫りますが、アダムは「天下の将軍様のご法度(はっと)であってもイエス・キリストに背くつもりはない」と答えています。

4)苦難
*60歳を過ぎたアダムは富岡へ連行され、拷問が始まります。横木に縛られたアダムは3月の冷たい潮風の中にさらされ、死なないよう、夜は小屋に入れられました。朝から晩まで吊るされ、9日間続きました。しかし彼は、9日間の祈り(ノベナ)のような気持ちでその苦しみをささげました。この責めが効果なしと判断した川村はアダムを小さな小屋に60日間閉じこめます。彼は外部を離れて60日間の黙想ができると思い、この苦しみを喜んで捧げました。「私はただ神さまのおん助けと慈悲におすがりするだけだから、祈ってください」と、祈りの日々を牢の中でささげています。
*富岡で60日間牢に閉じ込められても棄教しないアダムを見て、藩主の寺沢は死刑を命じました。処刑は4~5日後になると、みんなに触れ回りますが、信者たちはどうせすぐに処刑するだろうと思います。信者たちの思いは的中し、人目を避けて行われましたが、アダムが処刑場に連行された時、信者たちはすでにその周りにいました。

5)殉教
*斬首するはずの刀は肩に食い込み、うまくいかず、苦しみながら彼は殉教していきました。しかし、アダムはイエスのみ名を唱えながら生涯を終えています。その後、キリシタンたちが遺体を取るだろうということで、遺体には重い石が付けられ、湾外の海中に沈められました。殉教したのは、1614年6月5日の早朝でした。
*「私は高齢ですから」とは決して言わないアダム荒川。自分の使命をしっかりと見つめ、自分にできることがあればそれに打ち込んでいく勇気を、彼の生涯において見いだすことができます。活動と祈りに満ちた生涯でした。

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