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これってどんな種?

いさめるという種 年間第23主日(マタイ18・15〜20)

 私たちは、教会共同体や修道院、もっと広げて学校、会社などという【共同体】に属していることでしょう。そして一番小さい共同体としては、家族があります。それらの共同体の中では、うまくいく時もあれば不協和音のように行き違いや対立、誤解などが生まれてくることもあります。そのような時、私たちはどのようにしたらいいのでしょうか。

 きょうのみことばは、共同体の仲間が罪を犯し、その人を罪から解放しようとする【隣人愛】をイエス様が教えられる場面です。

 マタイ18章は弟子たちがイエス様の所に集まって「天の国では、誰が一番偉いでしょうか」(マタイ18・1)という質問から始まっています。イエス様の弟子たちでも、「共同体の中で誰が一番偉いのか」を気にしていたのです。イエス様は幼子たちを呼び寄せ「このような幼子の一人を、わたしの名の故に受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18・5)と言われ、「あなた方はこれらの小さな者を、軽んじないように気をつけなさい。」(マタイ18・10)と言われ、最後には「このように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、天におられるあなた方の父のみ旨ではない」(マタイ18・14)と言われます。このように、イエス様は、ご自分の所に集まってきた人々(教会共同体)の人々がどのように歩んでいけばいいのを語られているようです。

 そして、きょうのみことばとなるのですが、ここでイエス様は、「もしあなた方の兄弟が罪を犯したなら、行って2人だけの間で、彼をいさめなさい」と言われます。この罪を犯した兄弟は18章の中で流れている【幼子】であり【小さい者】であり【迷える羊】というわけです。イエス様は、「たとえ罪を犯したてもその人が滅びることをおん父は望んでいない」と教えておられます。ですからイエス様は、まず、共同体の仲間が罪を犯していることに気づいた場合、その気づいた人が個人的にいさめなさいと言われておられるのではないでしょうか。

 では、なぜ2人だけなのでしょうか。それは、罪を犯した人を守るということだと思うのです。罪を犯した人は、自分に負い目を感じています。ですから、最初から共同体全体で彼をいさめるのは、彼を辱めることになりますし、彼の罪が公なものとなってしまいます。そうすると、その人は、共同体にいることができなくなります。

 イエス様は、「もし、彼があなたのいうことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになる」と言われます。もちろん肉親の兄弟ではなく、親友ということでしょうし、共同体の中で生活するための【命の恩人】になるくらいの意味を持っているのかもしれません。しかし、彼の「いさめ」を受け入れずに頑なになった時には、「ほかに1人か2人を連れてきなさい」とイエス様は言われます。イエス様は、まずは1人という個人的な【いさめの場】を設け、次に1人か2人を連れてきて【いさめの場】を設けるようにと言われます。

 イエス様が【いさめる】のは、決して【裁く】ということではなく、「罪を犯した人が共同体で生きることができるように」という意味を持っています。ですから、この【いさめの場】というのは、アガペの愛が必要不可欠なのです。

 最後にイエス様は、「もし彼らの言うことも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と言われ、ここで初めて【教会共同体】の場で【いさめの場】をもうけます。次いでイエス様は、「教会の言うことも聞き入れなければ……」と言われ、この罪を犯した人が教会の言うことさえ頑なに拒んだ場合は、「異邦人や徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。このことは、教会共同体からの【破門】と言う厳しい宣告を意味します。もちろん、イエス様は、彼を見捨てたと言うことではなく、彼に心地いい場所を与えられたとも考えれます。「タラントンの喩え」(マタイ25章14〜30)の中に出てくる最後の人は、この主人を「厳しい方」と知っていたので、他の人のように商いをしてタラントンを増やさなかったため、外の闇に投げ出されます。このことは、この人にとって主人との場が落ち着かなかったので、主人は彼を自分から遠ざけたのです。この喩えと同じように、共同体から破門された人は、イエス様の元に集まってきた【共同体】に馴染めなかったのではないでしょうか。

 イエス様は、ペトロに授けた天の国の鍵の権威を他の弟子たちにも与えた後、「どんなことであれ、もしあなた方のうち2人が心を一つにして地上で願うなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださる。」と言われます。この2人というのは、最小限の共同体ですし、その後に言われた、「2人また、3人がわたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」と言うのは、【教会共同体】のことを示しておられるのです。イエス様は、私たち一人ひとりの中におられますが、同時に【教会共同体】の中にもおられます。私たちは、この共同体の中でアガペの愛を持って、相手の中にいるイエス様に気づき、互いにいさめあって【隣人愛の輪】を広げて行くことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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