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福者ジャッカルド神父

誕生と家庭環境――福者ジャッカルド神父(4)

 前述のケラスコ村は1956年にナレツォヘル町に合併されたが。それより60年前の1986年(明治29年)6月12~13日におけての夜中のことである。この村のバッタリオーネ(Battaglione )という農地管理人の住居の二階寝室で、若妻のマリア・カーニャ(Cagna )が初子を産む前の陣痛の叫び声を何回となく上げだしてのである。胎児の位置が異常だったので、その陣痛は並大抵ではなかった。そのベッドの周囲では、産婆と若妻の母親とが出産に備えて大忙しであった。

 婿のステファノ(Stefano )はといえば、一階の部屋の中を興奮気味に歩き回り、心配げに二階の物音に耳をそばだてていた。静かな夜空には星が幾つもキラキラと輝いていた。日中の暑気に代わって早朝の冷気が室内にも漂った。いよいよ出産間際の痙攣が始まった時に、若妻はベッドの頭のほうにあった聖母のご絵に振り向いて、こう祈った。「マリア様、この子の安産をお願いいたします。あなたにおささげしますから!」と。

 間もなく、サン・ジョバンニ教会の鐘の音が、小鳥のさえずりに混じって高らかに鳴り響いた。空は白みかけていた。この日の曙に、二階から新生児の泣き声が響きわたった。こうしてティモテオ・ジャッカルドは、1896年6月13日(土曜日)、バドアの聖アントニオ(新しい花の意味)の祝日に生まれたのである。父親のステファノは、後にこの日の状況を思い起こして、次のように素朴に述べている。

 私たちが結婚してから一年後の6月13日の午前5時、我が家は赤ん坊の誕生でにぎやかになりました。この日5時に、赤ん坊をサン・ジョバンニ・サルマッサ教会に抱いていって、洗礼を授けていただきました。代父は母方の祖父ドミニコで、自分の姉妹の孫息子にも自分と同じ名前をつけたいと願いました。それで、赤ん坊はジョゼッペという名前に加えて、ドミニコ・ビンチェンツォという名前もつけられました。洗礼が終わってから、父方の叔母である代母は、赤ん坊に「カルメルの聖母」の保護を求めてあげたいと思い、そのスカプラリオを掛けてあげました。

 また、ステファノは、その後ジョゼッペの成長ぶりをこう書いている。

 この子は皆からたいそうかわいがられていました。生後6ヵ月目に、ジョゼッペはひどい重病にかかりました。この子を帰天させなければならないのかと、家族は悲嘆にくれました。聖母への9日間の祈り(ノヴェーナ=Novena)の後にこの子が回復したので、これはまちがいなく神さまのお恵みでした。ジョゼッペは10か月で歩けるようになり、イエスとマリアのご絵を指していました。おとなしい子でした。母親はこの子に小さなおもちゃ類を持たせて、しばしば独り家に残していました。物静かで、泣くこともありませんでした。近くの通行人には、初めびくっとしながらも、かわいいほほ笑みを投げかけていました。

 このあと、ステファノ一家は次々と子宝に恵まれ、にぎわいを増した。第二子は男の子で、名をドミニコといい、後に彼は、その家族を連れてフランスに移住した。第三子の長女マリアは6歳で死亡、次女のフィロメナは生後3ヵ月で、三女は洗礼後に亡くなった。四女のマリアは結婚し、家庭を作った。ジョゼッペは少年のころまで、ピエモンテ地方の言い回しのピノトゥ(Pinotu)という名で通っていた。
ピノトゥが4歳の時にステファノは破産し、一家は仕方なくナルツォーレの町はずれに引っ越した。そこからナルツォーレ教会までは、かなりの距離があった。そしてピノトゥが12歳の時、後のパウロ家の創立者アルベリオーネ神父が、ナルツォーレ教会の病身の主任司祭を助けるためにやって来た。ここでアルベリオーネ神父とピノトゥとの最初の出会いがあるのだが、この様子は後で詳しく述べよう。アルベリオーネ神父の回想録によると、ステファノ一家のことがこう述べられている。

 彼らは熱心に教会へ通い、聖なる儀式に好んであずかりました。純朴で品行のよい、正直な労働者たちでした。父ステファノは教会通いをし、必要な時には香部屋係を引き受け大祝日には主任司祭の手伝いをしていました。宗教行事とか町の行事には重要な役務を引き受けて、皆から尊敬されていました。(「S,Paolo 」1948年2月号参照)。

 要するに、ステファノは立派なキリスト信者であり、社交的で愛想がよく、誠実であり、よく祈りをしていた。しかし運に恵まれず、引っ越してからは一階の酒蔵に住み、家畜を飼育したり、野菜畑に肥料を撒くといった、その時々に見つけた仕事をしていた。また、若い時に豚肉加工工場で働いていた経験を生かして、ソーセイジ作りもして生計を立てていた。
母マリアは素朴で信心深く、ピノトゥに大きな影響を及ぼした。特に聖母への信心の面での影響は大きかった。ナルツォーレの聖ベルナレドにささげられた教会の高座には、木製金箔の美しい、大きな「ロザリオの聖母像」が安置されていた。母親は、しばしば、このご像の前にピノトゥを連れていって一緒に祈っていた。ピノトゥは大きくなってからも、機会あるごとに、独りでこのご像の前で祈ったり、黙想したりしていた。ピノトゥの聖母信心について、父ステファノはこう述べている。

 あの子は好んで小さな家庭祭壇を飾り、聖母のご絵の前に花をささげていました。そのベッドのそばの棚の上には小さな聖母像が置いてありましたが、そのご像には、草花とか緑の小枝の絶えたことはありませんでした。

 ピノトゥは、両親が留守をしていた時、しばしば弟や妹の子守をしていた。ある日、弟のドミニコの守りをしていた時のこと、突然弟が泣き出した。きっとおなかが空いたのだろうと思って、ピノトゥはパンのかけらをぶどう酒に浸して、弟の口の中へ押し込んだ。弟は泣きやむだろうか、のたうち回って声を張り上げた。ただならぬ声に母が駆けつけてきたが、すんでのところで弟は窒息死するところであった。
ピノトゥは4歳になると、聖アンナ修道女会の経営する幼稚園に通いはじめた。そこがたいへん気にいっていたので、瞬く間にいろんな祈りや詩を覚えてきては家族の前で披露するのであった。人柄がよく、利口な子だったので、シスターたちにもたいへんかわいがられた。

・『マスコミの使徒 福者ジャッカルド神父』(池田敏雄著)1993年
※現代的に一部不適切と思われる表現がありますが、当時のオリジナリティーを尊重し掲載しております。

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