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これってどんな種?

強く導いてくださいという種 年間第13主日(9・51〜62)

 きょうのミサの集会祈願に「ここに集められたわたしたちを強く導いてください。いつもキリストに従って歩むことができますように」とあります。私たちは、イエス様について行こうと思っていても、時々気を散らしたり、別の方向ヘ向かったりしてしまう弱いものです。それで、この祈りの中には【強く導いてください】と言うおん父への祈りが込められているのではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様がエルサレムへ旅立とうとする場面です。イエス様は、何度かエルサレムに行かれていますが、今回の旅は、いつもと違うようです。みことばは「さて、天に上げられる時が近づいたので」ということころから始まっています。この旅は、イエス様が「受難と復活」へと向かうことの始まりを意味しているものでした。イエス様にとってできれば、行きたくない【旅】なのです。イエス様は、「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、み旨が行われますように」(ルカ22・42)と祈られるほど、イエス様にとってこの【旅】は辛いことだったのです。

 イエス様は、それでもおん父のみ旨に忠実に従うために「エルサレムに向かって旅立とうと決心された」のです。この【決心】というのは、「顔を固くする」という意味があるようです。ですから、イエス様は、顔をこわばらせるほど緊張され、おん父のみ旨に従うように、それだけではなく、私たち一人ひとりの罪を贖い、私たちを救うためにご自分を鼓舞されてエルサレムへ旅立とうと【決心】されたのです。

 イエス様は、ご自分が泊まる宿を準備させるために、先に使いのものを送られます。この旅は確実に泊まるところを確保しながら旅をしなければならないほど、エルサレム行きが辛いものだったのでしょう。しかし、サマリア人たちは、イエス様がエルサレムに向かって行こうとしていたので、自分たちの村に入ることを拒みます。それで、ヤコブとヨハネは、「主よ、お望みでしたら、天から火を降らせ、彼らを焼き払うように願いましょう」とイエス様に言います。このことは、アハズヤという王が、エリヤのもとに50人隊長とその部下50人を送って「自分の所に来て欲しい」と言う使いを送った場面です。ここでアハズヤ王は、2度送ることになるのですが、それは、この隊長がエリアに向かって「神の人よ、王が『ただちに下りて来い』と言っています」と言った時に、エリヤは、彼らに対して「わたしが神の人であれば、天から火が降り、あなたをあなたの部下50人とともに焼き尽くすように」と言って彼らが滅ぼされたことを、弟子たちが使ったのでした(列王記下1・9〜10参照)。

 イエス様は、このように言った弟子たちをたしなめられます。もちろん、神の子であるイエス様ですから、弟子たちが言ったように「天から火を降らせる」ことがおできになられたことでしょう。しかし、イエス様は、力ずくで人々を従わそうとはなさいません。むしろ、ご自分を拒まれた人たちに対して愛を持って包まれ、彼らがご自分を拒む【強い意志】を受け入れられたのでした。ここに、イエス様の「いつくしみの愛」があると言ってもいいでしょう。

 イエス様と弟子たちは、サマリアに入らず他の村に向かいます。するとある人が「あなたが行く所なら、どこへでも従います」といいます。この人は、イエス様を取り囲んでいた群衆の中にいた律法学者のようです(マタイ8・19)。イエス様の教えは、律法学者の心を溶かされ、「弟子になりたい」と言わせるほど影響力があったのです。しかし、イエス様は、彼に対して「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕する所もない」と言われます。イエス様は「私の弟子になるのなら、人から拒まれることになりますよ、それでも良かったらついてきなさい」と言いたかったのではないでしょうか。

 今度は、イエス様の方からほかの人に「わたしに従いなさい」と言われますが、彼は、「まず、わたしの父を葬りに行かせてください」と願います。しかし、イエス様は「死者は死者に葬らせなさい。あなたは行って、神の国を宣べ伝えなさい」と言われます。ユダヤ教に限らず身内の死者を葬るのは、重要なものですが、イエス様は「神の国を宣べ伝える」ことを最優先にしなさいと言われます。

 また、別の人が来て「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいをさせてください」と言います。イエス様は、その人に「鋤に手をかけてから、後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と答えられます。イエス様は、ご自分がもうすぐ天に上げられることを意識され、ご自分に従う弟子たちを養成しようとされたのでしょう。イエス様は、ご自分の弟子になることは、物質的にも身体的にも辛いことがあるし、社会の常識や、自分の生活、家族さえも犠牲にすることもあるが、それでも「神の国を宣べ伝える」ことが大切であると伝えようとされたのではないでしょうか。

 私たちは、イエス様に従って行こう願っています。しかし、時々苦しくなったり、よそ見をしたりすることもあるかもしれません。私たちは、改めて心からおん父に「強く導いてください」と祈ることができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  2. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

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