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これってどんな種?

愛なしにはという種 年間第31主日(マルコ12・28b〜34)

 テレビのコマーシャルで「そこに愛はあるんか」という言葉を使ったものがあります。いくつかのバージョンがあって面白いのですが、必ず、この言葉が使われます。もちろん、このコマーシャルを作った人は、宗教とはまったく関係がないと思います。それでも、【そこに愛はあるんか】という言葉は、かなり印象的でいつまでも耳に残るコマーシャルです。

 きょうのみことばは、一人の律法学者がイエス様の前に進み出て「どれが第一の掟ですか」と尋ねる場面です。イエス様と弟子たちは、エルサレムに到着し神殿の境内に入られた後、さらに、翌日にもイエス様は、エルサレムにお入りになられ、神殿の境内を歩かれていると、祭司長や、律法学者や、長老たちがイエス様の所に来ていろいろな質問をし始めます(マルコ11・15〜27参照)。この質問は、イエス様が何の権威を持って教え、奇跡を行なっているのか、と言うことから始まって、「納税の問題」、「死者の復活」についてのものでした。

 彼らの質問は、単なる質問ではなくイエス様の言葉尻をとらえようとしたものだったのです(マルコ12・13参照)。きょうのみことばは、そのような議論を聞いていた一人の律法学者がイエス様に質問する場面です。みことばは、「さて、この議論を聞いていた律法学者の一人は」という出だしですが、彼は、どのような気持ちで彼らとイエス様の議論を聞いていたのでしょうか。もしかしたら、「そのような意味がない議論をいつまで続けているの」と心の中で思っていたのかもしれません。

 彼は、イエス様の巧みな答えぶりを見て、進み出て尋ねます。聖書の中で【見る】という言葉は、いろいろな意味として使われます。彼がイエス様と他の人との議論を【見て】いたのは、ただ漠然と見ていたのではなく、【注視】しながら【見て】いたのではないでしょうか。律法学者にとって数多くの【掟】は、どれも守らなければならないし、周りのユダヤ人たちからも質問を受けていたことでしょう。彼は、そのような問題を抱える中、「ぜひ、これだけはイエス様に質問をしてみたい」と思っていたのかもしれません。

 彼は、他の律法学者やファリサイ派の人々の中から【進み出て】尋ねます。この【進み出る】という彼の動作の中には、彼の真摯な気持ちが表れているようです。彼は「すべての掟のうちで、どれが第一の掟ですか」と尋ねます。イエス様は、彼の質問を受けてそれまでの質問と違い、真面目な質問に心からお喜びになられたことでしょう。イエス様は、「第一の掟はこれである、『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』」と答えられます。このみ言葉は、「シェマー」と言われるものでユダヤ人だったら小さい頃から馴染んで、「メズーザ」にしていつも身近な所に置いていました。

 イエス様は、「あなたたちがいつも唱えている、そのみことばこそが第一の掟なのですよ」とお答えになられたのです。この答えを聞いた彼は、「目から鱗」と思ったのかもしれません。申命記には「子供たちにそれらを繰り返し教え、あなたが家に座っている時も道を歩く時も、寝ている時も、語り聞かせなさい」(申命記6・7)とあるように、ユダヤ人にとっては、本当に身近な掟だったのです。

 イエス様は、さらに「第二の掟はこれである。『隣人をあなた自身のように愛せよ』。この二つの掟よりも大事な掟はない」と答えらます。イエス様の第二の掟は、レビ記19章18節にありますが、その前に「復讐してはならない。お前の民の子らに恨みを抱いてはならない」というみ言葉があります。イエス様は、「復讐」とか「恨み」を抱くような場面でさえも「その隣人をあなた自身のように愛せよ」と言われているのです。イエス様の【掟】は、【愛】を外しては、どのような他の掟を守ったとしても完全ではないと言われているのでしょう。

 律法学者は、「先生、確かにそうです。……実に立派なお答えです。……どんな焼き尽くす捧げ物や犠牲よりも、遥かに優れています」とイエス様のお答えの「第一」と「第二」の掟を一つにして称賛しています。彼の心の中には、今まで悶々として霧がかかったような気持ちが、「スー」と晴れたようになったことでしょう。彼は、イエス様のお答えをただ繰り返すのではなく、自分の言葉に置き換えてイエス様に伝えます。このことは、彼がイエス様のお言葉をしっかりと【聴いていた】ことを意味します。

 イエス様は、彼の「賢い受け答え」を見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われます。イエス様は、彼の受け答えの中に他の律法学者と違った誠実さを感じられたことでしょう。ただイエス様は、彼の答えがまだ【愛】ではなく、【知識】としての理解だったことに気がつかれたのではないでしょうか。

 私たちは、イエス様が教えてくださったこの【愛の掟】を心から豊かなものとして身につけて日々の生活の中で行っていくことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 整えるという種 待降節第2主日(ルカ3・1〜6)

  2. 祈りなさいという種 待降節第1主日(ルカ21・25〜28、34〜36)

  3. 真理を求め深めるという種 王であるキリスト(ヨハネ18・33b〜37)

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