聖フランシスコの生涯を、「平和」「環境」「貧しい人への奉仕」といった個別の功績ではなく、「自分は何者なのか」「人や世界をどのように見るのか」「神は自分に何を望んでいるのか」という問いから捉え直す中高生向けの黙想講話。
人や自分自身に貼ったラベルを外し、自然や人間を「役に立つかどうか」で測るのではなく、神に造られた存在そのものとして見るフランシスコのまなざしを紹介しながら、進路や人間関係など人生の岐路に立つ若者たちに、「神様は、今の私に何を望んでおられるのだろう」という問いを持って歩むよう促します。
0.導入
みなさん、今日は聖フランシスコについて話します。
「聖人の話」と聞くと、ちょっと身構える人もいるかもしれません。
●「昔の偉い人の話でしょ」
●「すごい人だったんでしょ」
●「私たちも見習いましょう、という話でしょ」
まあ、だいたいそういう話だと思っているでしょう。
でも、今日は少し違う角度からフランシスコを見てみたいと思います。
私はフランシスコを、「人生をどう生きるか分からなくなった人」として見てみたい。
考えてみると、これは意外と大事なことです。
フランシスコは、最初から「聖フランシスコ」だったわけではありません。
お金持ちの家に生まれました。
きれいな服を着て、友達と遊んで、騎士になることを夢見ていた。
今の言葉で言えば、かなり人生を楽しんでいたお坊ちゃんです。
ところが、人生が思った通りに進まなくなります。
戦争に行き、捕虜になり、病気になり、いろいろな経験をする。
そして、その中で少しずつ、自分がこれまで思い描いていた人生に疑問を持つようになります。
「自分は、このまま生きていっていいのだろうか」
ここから、フランシスコの人生が変わっていきます。
1.「自分は何者なのか」
みなさんも、これからいろいろな場面で、自分について考えることになるでしょう。
●「自分は何が得意なんだろう」
●「将来、何になればいいんだろう」
●「どこの学校に行けばいいんだろう」
●「自分には何が向いているんだろう」
画面を見つめながら、もっと厄介だと感じるのが、「自分って、結局どういう人間なんだろう」という問題です。
これは、けっこう難しい。
なぜなら、周りの人がいろいろなことを言ってくるからです。
「あの人は頭がいい」「運動ができる」「明るい」「暗い」「人気者」「変わっている」……。
学校にいると、いつの間にか人にラベルが貼られます。
そして、自分自身にもラベルを貼ります。
「私は勉強が苦手だから」
「私は人付き合いが苦手だから」
「どうせ自分なんて、こんな人間だ」
でも、ちょっと待ってください。
本当に、そんなに簡単に自分を決めてしまっていいのでしょうか。
フランシスコだって、若い頃の自分だけを見れば「金持ちの家のお坊ちゃん」「騎士になりたい青年」という人だったでしょう。
ところが、人生の途中で、それまでの自分では説明できない問いに出会った。そして、そこから人生が変わっていった。
だから、自分を早く決めすぎないでください。
「自分はこういう人間だ」という言葉を、自分自身に対しても簡単に使わないことです。
人間は、そんなに完成品ではありません。
2.「敵」というラベルをはがす
フランシスコについて、もう一つ非常に興味深い出来事があります。
13世紀、キリスト教世界とイスラム世界は激しく対立していました。十字軍の時代です。
お互いに相手を「敵」と見ていました。
そんな中、フランシスコはイスラム世界の指導者スルタン・アル=カーミルに会いに行きます。戦争の真っ最中です。
普通なら、敵に近づくには武器を持っていくでしょう。
しかしフランシスコは、武器を持たずに相手のところへ行きました。
もちろん、これによって戦争が終わったわけではありません。
けれども、フランシスコは少なくとも、相手を「敵」という一つの言葉だけで片づけませんでした。「敵」と呼ばれている人のところへ行って、その人と話した。
ここに、フランシスコの面白さがあります。
私たちは今でも、簡単に人にラベルを貼ります。
「あの人、怖い」「性格悪い」「面倒くさい」「ノリが合わない」……。
でも、その人について、私たちは本当にどれくらい知っているでしょうか。
その人が家ではどんな人なのか。何を大切にしているのか。何に悩んでいるのか。何を怖がっているのか。どんな夢を持っているのか。
案外、何も知らない。
それなのに、「あの人は、こういう人」と決めてしまう。
平和というのは、戦争が終わった状態だけではありません。もっと小さなところにも平和はあります。
たとえば、「なんであの人、あんなことするんだろう」と思ったときに、「この人は、どんな人なんだろう」と考えてみる。それだけでも、世界の見え方が変わります。
「敵」を消すのではなく、「敵」というラベルを一度はずして、その向こうにいる人間を見る。
フランシスコは、そのことを身をもって示した人でした。
3.世界は「もの」なのか
フランシスコには、『太陽の賛歌』という有名な祈りがあります。
そこで彼は、太陽を「兄弟」、月や星を「姉妹」、水を「姉妹」、火を「兄弟」、大地を「母」と呼びます。
これは、単にフランシスコが自然好きだったからではありません。
彼にとって、この世界は、人間が好き勝手に利用するためだけの「もの」ではなかったからです。
私たちは、いろいろなものを「役に立つかどうか」で考えます。
便利か、得か、お金になるか、使えるか……。自然についてもそうです。
そして、この考え方は、いつの間にか人間にも入り込んできます。
「あの人と友達でいると得だから」
「あの人と一緒にいても何の得もないから離れよう」
そうなると、人間まで「役に立つかどうか」で見るようになります。
でも、フランシスコは違う世界を見ていました。
役に立つから価値があるのではない。存在している。神から与えられた命を生きている。それだけで、すでに価値がある。
太陽も、水も、大地も、動物も、人間も。
だからフランシスコにとって、環境を大切にすることは「地球に優しくしましょう」という道徳の授業ではありません。世界を見る目そのものを変えることでした。
4.そして、自分自身を見る
ここまで来ると、フランシスコの話が少し自分に近づいてきます。
人を「ラベル」で見ない。
自然を「資源」だけで見ない。
では、自分自身をどう見ているでしょうか。
成績、運動能力、容姿、友達の数、SNSの反応、学校での評価、将来性、親からの期待……。
そういうものを全部足して、「自分には価値がある」「自分には価値がない」と考えていないでしょうか。
でも、もしそうなら、自分自身まで「役に立つかどうか」という物差しで測っていることになります。
フランシスコが見ていた世界では、神に造られたものは、それだけですでに神の前に意味を持っています。
それなら、皆さん自身もそうです。
成績が良くても悪くても。人気があってもなくても。将来が決まっていても、まだ何も決まっていなくても。
神様の前では、まず一人の人間です。
これは、かなり大事なことです。
5.人生の岐路に立つ皆さんへ
さて、ここからが今日の本題です。
皆さんは、これから人生の岐路に立っていきます。
高校を選ぶ。大学を選ぶ。仕事を選ぶ。誰と付き合うのか。どこで暮らすのか。
そのたびに、いろいろな人が言ってきます。
「こっちのほうがいい」「この学校に行ったほうがいい」「将来はこの仕事が安定している」。
もちろん、そういうアドバイスは大切です。そして、「自分は何をしたいのか」も大切です。
でも、キリスト者として、もう一つの問いを持っていてほしい。
それが、「神様は、私に何を望んでおられるのだろう」という問いです。
これは、「神様が私の人生の正解を一枚の紙に書いて持っているから、それを当てなさい」という話ではありません。
むしろ、人生のその時、その時に、「私は今、何を大切にして生きるべきなのか」と神の前で問い直すことです。
フランシスコだって、最初から全部分かっていたわけではありません。
最初から「平和の守護聖人になろう」とも、「環境の守護聖人になろう」とも思っていません。そんな肩書きは、ずっと後からついたものです。
彼がその時、その時に、「神様は、今の私に何を望んでいるのだろう」と問いながら歩いた。
その結果として、彼の人生が平和を生み、貧しい人に寄り添い、自然を兄弟姉妹として見る人生になった。
だから、皆さんも、
「将来、私は何になるんだろう」と考えるだけではなく、
「私は、どんな人間になりたいんだろう」
さらに、
「神様は、私をどんな人間として生きるよう招いているんだろう」
と考えてみてください。
6.答えは、案外小さい
そして、ここが大事です。
神様の望みは、いつも人生を一気に変えるような大きな使命として現れるわけではありません。
●今日、誰かに優しい言葉をかけることかもしれない。
●今日、誰かを「こういう人」と決めつけないことかもしれない。
●今日、自分がやるべきことをきちんとやることかもしれない。
●今日、誰かに「ごめん」と言うことかもしれない。
●今日、誰かの話を最後まで聞くことかもしれない。
●あるいは、何もせず、少し待つことかもしれない。
だから、「神様の望みを知る」というのは、人生の壮大な計画を当てるゲームではありません。
今日をどう生きるか。
今、目の前にいる人をどう見るか。
今、自分自身をどう扱うか。
そこから始まります。
おわりに
フランシスコは、特別な人だったから聖人になったのではありません。最初から完成された人間だったわけでもありません。
彼も迷った。彼も人生を探した。彼も、それまでの自分を捨てることになった。
探しながら、何度も「神様は、私に何を望んでおられるのだろう」と問い続けた。
だから、人生の岐路に立っている皆さんに、今日は一つだけ問いを持って帰ってほしいと思います。
進路に迷ったとき。友達との関係で悩んだとき。自分が嫌になったとき。何を選べばいいのか分からなくなったとき。
一度、立ち止まってください。
一人の人間として、「神様は、今の私に何を望んでおられるのだろう」と考えてみてください。
すぐに答えが出なくてもいい。むしろ、出ないほうが普通です。焦らなくていい。
人生は、まだ決まっていません。
あなたが自分で勝手に貼ったラベルによっても、他人があなたに貼ったラベルによっても、あなたの人生は決まりません。
神様の前で、これから何度でも問い直していい。そして、そのたびに一歩ずつ歩けばいい。
人生の岐路に立つ皆さんへ。
まだ何者でもないからこそ、これから何者にでもなれる。
でも、最後に一つだけ覚えておいてください。
何者になるかより先に、「誰の前で、自分の人生を生きるのか」。それを忘れないでください。
聖フランシスコが800年前に問い続けたように。
「神様は、今の私に何を望んでおられるのだろう。」
