待降節の終わりが近づくと、教会の空気には少しずつ光が増していきます。
けれども、この季節の深みは「やがて来る神」を待つことだけではありません。
むしろ、「もう来られた神」と、「今も来られつつある神」のあいだで生きる――
それが待降節という“二重の時間”の本質です。
私たちはしばしば、「神はまだ来ていない」と思います。
しかし実際には、神は来ておられ、そしてなお来り続けておられる。
神は一度きりの訪問者ではなく、常に遅れて、常に到着しつつある方なのです。
Ⅰ. 「来たる神」と「来り続ける神」
クリスマスとは、神が時間の中に入って来られた出来事です。
けれども、あの夜の誕生で神の訪れが終わったわけではありません。
むしろそれは、神の永遠の来臨が始まった瞬間でした。
私たちは、「イエスが来られた」と過去形で語りがちです。
けれども福音書が語るのは、「イエスが来ておられる」「イエスが来る」という現在進行形と未来形の神です。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
この言葉は、神の到来が“継続している”ことを示しています。
神は一度到着して終わる方ではない。
神は、到着し続ける神なのです。
だからこそ、「遅れてくる神」とは、「来ることをやめない神」の別名でもあります。
神の遅れは、距離ではなく、持続的な臨在のリズムなのです。
Ⅱ. 「遅れ」と「臨在」の逆説
私たちの多くは、「神がいない」と感じる時間を「遅れ」と呼びます。
しかしその“神の不在”のように思える時間の中にも、神は確かにおられる。
ただ、見えない形で来ておられるのです。
イエスが復活ののち、エマオへの道で弟子たちと歩かれた時、
彼らはその方を見ても気づきませんでした。
神はしばしば、遅れてではなく、静かに、気づかれぬ形で来られる。
神の遅れは、神の慎み深さです。
神は私たちの自由を尊重し、光を強引に押しつけることをなさらない。
だからこそ、私たちは「見えない形で来ておられる神」を待ち続けることを学ぶのです。
遅れているように見えるその時間こそ、
――神が近づいている時間なのです。
神の臨在は、いつも「すでに」と「まだ」の間にあります。
“すでに始まっているが、まだ完成していない”。
この緊張の中で、信仰は生き生きと呼吸します。
それが、待降節の「張りつめた静けさ」です。
Ⅲ. 「遅れて来る神」は、心に入る神
神はなぜ遅れて来るのでしょうか。
それは、外からではなく内側から訪れる神だからです。
神の到来は、外的な奇跡や劇的な出来事ではなく、
心の中の“目覚め”として起こります。
だから神は、心が整うまで待たれる。
神の遅れは、私の準備の遅れなのです。
私たちが心を開ききるその瞬間、
神の到来は“突然”に見える――しかし実際には、
神はずっと前から私の扉の前に立っておられた。
「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。」(黙示録3:20)
この叩く音は、急がない音です。
神は私たちのリズムに合わせて、静かに、何度でも叩かれる。神の遅さは、愛の忍耐そのものなのです。
Ⅳ. 「いま来つつある神」
待降節の本当の発見は、「神はすでに来つつある」という事実です。
私たちはしばしば、“まだ来ない神”を待ちながら生きています。
しかし本当は、“もう来ている神”に気づくことこそが信仰の目覚めです。
祈りの中で感じる小さな平安、
誰かの優しさに触れたときの静かな感動、
ふと心に浮かぶ赦しの思い――
それらはすべて、神の到来の形です。
神は大きな出来事ではなく、日常の隙間に来られる。
神の時間は、私たちの“いま”の中に流れ込んでいます。
遅れていると思っていたその時間の中で、
実は神は来ておられた。
それに気づくことが、信仰の喜びであり、待降節の成熟です。
Ⅴ. 「来続ける神」としての救い
救いとは、過去に一度だけ起こった奇跡ではありません。
それは、いまも進行している神の訪れです。
神の恵みは歴史の出来事であると同時に、
日々の心の中で「来続ける臨在」でもあるのです。
私たちが「もう終わった」と思うところで、
神は「ここから始めよう」と言われる。
神の遅れは、“やり直しの余白”を与える恵みです。
ペトロがイエスを否定した夜、
夜明けに鳴いた鶏の声が、神の「まだ終わっていない」という声でした。
神の遅れとは、赦しの可能性の延長。
神は、私たちが自分を閉ざすその瞬間にも、
「なお来り給う」方として訪れてくださるのです。
だから、神が遅れているように感じるとき、
それは実は、神が“私をもう一度迎えに来てくださっている”時なのです。
Ⅵ. 「遅れている神」を待つのではなく、共に歩む
待降節の終盤にふさわしい問いがあります。
――神を「待つ」とは、どういうことか。
それは、神の到着を待つことではなく、神の歩みに同伴することです。
「遅れてくる神」とは、私たちの歩みに合わせてくださる神。
神は走らず、押しつけず、
私たちの速度に合わせてくださる。
私たちは早く理解したい、早く解決したいと思う。
しかし神は、「ゆっくりでいい」と言われる。
愛の速度は、いつもゆるやかです。
だから、神の遅さを嘆く代わりに、
その遅さに同行する信仰を持ちたい。
神が遅れておられる間、
私たちはその歩みの中で、
“神のリズムで愛すること”を学ぶのです。
Ⅶ. 「永遠の遅れ」としての希望
神の「遅れ」は、終わりなき希望のしるしでもあります。
もし神が一度きりで全てを終わらせる方なら、
私たちはもうやり直せません。
しかし神は“遅れて来る”からこそ、未来がある。
神は、あえてすべてを完成させず、
いつも“これから”を残してくださる。
それは、人間の不完全さを罰するためではなく、
希望を持って歩む余白を与えるため。
この「永遠の遅れ」が、神の愛の深さです。
神の救いは、常に進行形。
そして私たちは、その遅れの中で、
少しずつ神の似姿へと形づくられていくのです。
結び ― 「いまも来り給う神」への賛歌
待降節の最後の祈りは、
「マラナ・タ(主よ、来てください)」という言葉に集約されます。
しかしこの祈りは、未来を呼び寄せるだけの言葉ではありません。
それは、すでに来ておられる神に気づくための言葉でもあります。
神は遅れていません。
神は、私たちの歩幅に合わせて来てくださる。
だから、その遅さの中にこそ、神の優しさと誠実さがある。
待降節の終わりに私たちが見出すのは、
「待つ信仰」ではなく「共に歩む信仰」。
神の“遅れ”の中で、すべてが“すでに始まっている”ことを悟る信仰です。
神は来たる方、そしてなお来り給う方。
その永遠の遅れの中に、
――私たちの希望が息づいているのです。
