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週日の福音解説

あなたが使っている秤が、あなたを形づくる(四旬節第2月曜日)

ルカ福音書6章36ー38節

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。 37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人に定めるな。そうすれば、あなたがたも罪人に定められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」

分析

 この箇所は、「憐れみ」「裁き」「赦し」「与えること」という四つの主題が連続して語られていますが、それらは別々の徳目ではありません。全体を貫いているのは「秤」の問題です。人がどのような基準で他者を測るのか、その基準そのものが自分に返ってくるという構造が示されています。
 冒頭の「あなたがたの父が憐れみ深いように」という言葉は、単なる倫理的模範の提示ではありません。神の憐れみがすでに現実であるという前提から始まっています。つまり、憐れみは努力によって到達する理想ではなく、すでに与えられている神の性質です。命じられているのは、新しい徳を獲得することではなく、その神の現実に参加することです。
 続く「裁くな」という言葉は、判断を停止せよという意味ではありません。ここで問題になっているのは、他者を最終的に定義する態度です。人を罪人に定めるということは、その人の未来や変化の可能性を閉ざす行為です。神の憐れみが開かれた未来を持つのに対し、裁きは固定された過去に人を閉じ込めます。
 「赦しなさい」という命令も同じ構造に属します。赦しは感情の問題ではなく、相手を閉じ込めないという決断です。赦さないとき、人は相手を一定の評価の中に封じ込め、自分の秤を動かしません。しかし神の憐れみは、常に秤を動かし続ける力です。
 そして「与えなさい」という言葉は、経済的な勧めを超えています。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどという表現は、量の誇張ではなく、神の与え方の質を示しています。神の与え方は計算的ではなく、惜しみなく、余白を持っています。その神の秤に参加するなら、自分が使う秤も変わります。
 最後の一文、「自分の量る秤で量り返される」という言葉が、全体の鍵です。これは報復の法則ではありません。むしろ、人がどのような基準で世界を測るかが、その人の生きる世界そのものを形づくるという宣言です。厳しい秤で測る人は、厳しい世界を生きます。閉ざされた基準で測る人は、閉ざされた関係の中に生きます。憐れみ深い秤を用いる人は、憐れみに満ちた空間に住み始めます。

神学的ポイント

1.憐れみは倫理ではなく神の現実への参加である
 「父が憐れみ深いように」という言葉は、模倣の命令ではなく、神の性質への参与を意味します。信仰は神の性質を反映する生き方です。
2.裁きは他者を固定化する行為である
 裁くとは、相手を一定の評価に閉じ込めることです。神の憐れみが未来を開くのに対し、人の裁きは可能性を閉ざします。
3.赦しは感情ではなく関係の再配置である
 赦しは気分の問題ではなく、相手を永遠に同じ位置に置かないという決断です。神学的に、赦しは新しい未来の創出です。
4.与えることは神の豊かさの反映である
 押し入れ、揺すり入れという表現は、神の与え方が計算を超えることを示します。信仰はその豊かさに倣う生き方です。
5.秤は報いの法則ではなく存在の構造である
 「量り返される」という言葉は罰の宣言ではなく、存在論的原理です。人は自分が使う基準の世界に住みます。

講話

 この箇所は、いくつもの命令が並んでいるように見えます。しかし中心にあるのは一つの問いです。あなたはどのような秤を使って生きているかという問いです。人を測り、評価し、位置づけるその基準が、やがて自分を包み込む空間になります。
 「あなたがたの父が憐れみ深いように」という言葉は、努力目標ではありません。神はすでに憐れみ深い。その現実の中に生きているなら、その憐れみが基準になります。問題は、神の基準で測るか、自分の基準で測るかです。
 人を裁くとき、私たちはその人を一つの判断に固定します。あの人はこういう人だ、と決めてしまう。しかし、その瞬間に自分もまた固定された世界に住み始めます。赦さないと決めるとき、関係は閉じ、未来は縮みます。裁きは相手を縛るようでいて、自分を縛ります。
 与えるという行為も同じです。惜しみなく与える人は、世界を不足の場所としてではなく、共有の場所として見ています。その視線が、自分の世界を形づくります。計算だけで動く人は、常に損得の秤の中にいます。憐れみの秤で動く人は、別の広がりの中にいます。
 「自分の量る秤で量り返される」という言葉は、脅しではありません。あなたが使っている基準が、そのままあなたの生きる世界になるという宣言です。神の憐れみの秤を使うなら、あなたは憐れみに囲まれます。狭い秤を使うなら、狭い世界に閉じ込められます。
 私たちは毎日、無意識のうちに誰かを測っています。その秤を点検することが、この言葉の求める悔い改めです。憐れみ深い父のもとに生きるなら、私たちの秤もまた、少しずつ広げられていきます。その広がりの中でこそ、人も自分も、自由になっていきます。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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