1 旧約の律法のもとでの結婚
*憐れみ深い神は、罪人である人間をお見捨てになりませんでした。罪の結果としての罰、すなわち、はらみの苦しみと「顔に汗を流す」(創世記3・19)労働はまた、罪の害を抑制する薬でもあります。原罪の後では結婚が、自己閉鎖や自己愛に基づく「利己主義」、自己の快楽の追求などに打ち勝ち、他者に心を開いて相互扶助と自己献身の態度を取ることができるよう助けてくれます。
*結婚の一夫一婦制と不解消性とに関する道徳的意識は、旧約の律法の導きのもとで次第に発展してきました。太祖や王たちの一夫多妻については、まだ明白には禁じられていません。
*預言者たちはイスラエル民族と神との契約を二人だけの忠実な夫婦愛にたとえ、選ばれた民の良心を培い、結婚の一夫一婦制と不解消性とのより深い理解へと導いていきました。ルツ記とトビト記は結婚について、とくに夫婦の忠実さと愛情についての優れた見方を示しています。
2 主キリストにおける結婚
*神とその民イスラエルとの間の結婚の契約は、新しい永遠の契約を準備しました。この新しい契約の中で神の御子は人となり、自らのいのちをささげ、ご自分によって救われた全人類とある意味で一致し、こうして「小羊の婚礼」を準備なさいました。
*イエスは宣教生活の初め、ある婚礼の機会に、ご自分の母親の願いに応じて最初のしるしを行われました。教会は、カナの婚宴にイエスが臨席されたことを重視します。教会は、ここで結婚がよいものであることが確認され、これからは結婚がキリストの現存の効果的しるしとなることが宣言された、と読み取っています。
*イエスは、創造主が当初に望まれた男女の結合の本来の意味を明確に教えられました。すなわち、モーセが妻を離縁する許可を与えたのは、人間の心のかたくなさゆえの譲歩でした。男女の結婚による結合は不解消です。それは神ご自身が夫婦を結び合わせられたからです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19・6)。
*結婚の絆の不解消性に関するイエスの断定的な強調は、人々を困惑させ、実行不可能な要求と受け取られる可能性がありました。しかし、イエスは夫婦に担うことのできない重荷、モーセの律法よりも重い荷を負わせられたのではありません。イエスは罪によって乱された創造の原初の秩序を回復するために来られ、神の国の新しい展望の中で結婚生活を生きるための力と恵みを自らお与えになります。夫婦はキリストの後に従い、自分を捨てて、自分の十字架を背負ってこそ、初めて結婚の本来の意味を「受け入れ」、キリストに助けられながらその教えに基づいて生活することができるのです。キリスト者の結婚の恵みは、すべてのキリスト教的生活の源であるキリストの十字架の実りなのです。
*使徒パウロはこのことを理解させようとして、「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになって、聖なるものとなさったように、妻を愛しなさい」(エフェ5・25~26)と述べ、さらに付け加えて、「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」(エフェ5・31~32)と語っています。
3 神の国のための独身
*キリストはキリスト教的生活全体の中心です。キリストとの絆が家族、社会、他のすべての絆に優先します。教会の当初から、結婚の幸せを放棄した男女が存在していました。それは、小羊が行かれるところにはどこにでもついていき、主のことに心を遣い、主に喜ばれることを求め、おいでになる花婿を迎えに出るためです。キリスト自ら、このような生き方をしてご自分に従うようにとある人々を招かれました。キリストこそ、この生き方の模範です。
「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないおうにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」(マタイ19・12)。
*天の国のための独身は、洗礼の恵みの発露、キリストとの絆の卓越性とその再臨の熱烈な待望との優れたしるしであり、さらに、結婚が過ぎゆく現世のことがらであることを思い起こさせるしるしでもあります。
*結婚の秘跡も神の国のための独身も、キリストご自身に由来するものです。キリストが、この双方に意味を与え、み旨に従って生きるために必要な恵みを与えられます。神の国のための独身の価値と結婚のキリスト教的意義とは、切り離すことのできない、互いに補い合うものです。