絶望のただ中で働く愛
――「苦しみの玄義」に見る、神の沈黙の力
Ⅰ 苦しみの現実と、私たちの本音
人は、苦しみの中にいるとき、自分が神から見放されたように感じるものです。
「なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか」
「どれだけ祈っても、何も変わらない」
「神は本当にいるのだろうか」
口には出さなくても、心の奥底ではそう呟いている自分に気づくときがあります。
そして、多くの人はその瞬間、祈る気力すら失います。祈りが届いていないように思えるのですから。
けれど、「苦しみの玄義」が私たちに語りかけるのは、まさにその“神不在のような場所”こそ、神が最も深く働いている場所だという驚くべき真理です。
ロザリオのこの部分は、人生の最も暗い夜をくぐっている人のための祈りです。それは「苦しみには意味がある」と軽々しく言うものではありません。むしろ、「意味などわからなくても、神はそこにいる」と告げる祈りなのです。
ここでは、五つの神秘を「苦しみのなかにいる人の心がどのように神と出会うか」という視点から黙想していきます。
Ⅱ 第一の苦しみ ― ゲッセマネの祈り:「祈ることが“逃げ”ではなくなるとき」
人生がつらいとき、人は「祈っても何も変わらない」と言います。それはある意味で正しいのです。祈りは、現実を魔法のように変えるものではありません。
ゲッセマネの園で、イエスが「この杯を取りのけてください」と祈ったとき、杯は取りのけられませんでした。苦しみはそのまま残りました。
それでも、祈りは無駄ではありませんでした。なぜなら、その祈りを通して、イエスの中で“逃げたい心”が“受け入れる心”へと変わっていったからです。
「私の願いではなく、御心のままに」――この言葉は、諦めではありません。
それは、「今の現実の中で神が共におられる」という信頼への転換です。
私たちが苦しみの中で祈るとき、現実はすぐには変わらないかもしれません。しかし、祈りを重ねるうちに、“現実の受け止め方”が少しずつ変わっていきます。
それは、「なぜ自分が」と問うことから、「この中で神は何をしておられるのか」と問う心への、静かな移行です。
Ⅲ 第二の苦しみ ― 鞭打ち:「尊厳を奪われても、価値は失われない」
人が深く傷つくのは、単に肉体の痛みのせいではありません。
それよりもはるかに深く人を壊すのは、尊厳を踏みにじられることです。
侮辱され、誤解され、理不尽に扱われ、誰にも価値を認めてもらえない――そうした経験は、心の奥を深くえぐります。
イエスは、罪なき方でありながら鞭で打たれ、群衆の前で辱めを受けました。
しかし、その瞬間にも、彼の価値は一片も失われていませんでした。
神の子としての尊厳は、侮辱によっても、嘲笑によっても、消えることはなかったのです。
あなたが今、周囲の言葉や評価に傷ついているなら、この神秘はあなたのためのものです。
どれほど踏みにじられても、あなたの本質的な価値は決して傷つかない。
それは、神があなたを創造されたときに刻まれたものであり、他人の言葉も、状況も、それを奪うことはできません。
祈りの中で、その価値の源が「神の愛」そのものであることを、もう一度思い出してください。
Ⅳ 第三の苦しみ ― いばらの冠:「笑いものにされたとき、神は沈黙している」
人は、嘲りの中で自分を見失います。どれだけ頑張っても評価されず、むしろ努力が笑いの種にされる。真面目さが馬鹿にされ、信仰が滑稽だと嘲笑される。
そのとき、私たちは「何のために生きているのか」と問いたくなります。
イエスは「王」と呼ばれながら、王冠ではなく茨の冠をかぶせられました。王座ではなく、笑い者として立たされました。
しかし、神は沈黙しておられます。言い返しも、力による反撃もありません。ただ、静かにその嘲りを受け止めておられます。
この沈黙は、敗北ではありません。
それは、「人の評価によって自分の価値を測らない」という、神の絶対的な自由の表れです。
あなたが嘲られているとき、神は同じ沈黙のうちにあなたと共におられます。沈黙の中で、「他人が何を言おうと、あなたは愛されている」という事実だけが、静かに輝いています。
Ⅴ 第四の苦しみ ― 十字架を担う:「倒れても、歩みは止まらない」
苦しみが長引くと、人は「もう立ち上がれない」と思います。
未来を考える気力もなくなり、毎日がただ“耐えるだけ”になる。
イエスもまた、十字架の重さに倒れました。一度ではなく、何度も。
しかし重要なのは、倒れたことではなく、倒れても歩き続けたことです。
神の子でさえ倒れるのなら、私たちが倒れるのも不思議ではありません。信仰があっても、祈っていても、倒れることはあります。
けれど、それは「失敗」ではありません。倒れながらでも、一歩ずつ進めばいいのです。
そして、イエスは一人で歩かれたわけではありません。キレネのシモンが十字架を背負い、ベロニカが顔を拭いました。
あなたの十字架にも、きっと誰かが関わっています。たとえ今は気づかなくても、祈り、支え、共に涙してくれる存在が、あなたのそばにいます。
Ⅵ 第五の苦しみ ― 十字架上の死:「終わりが“終わり”ではなくなるとき」
「もうだめだ」と思う瞬間があります。何も残っていない。希望も力も、未来さえもない――そんなとき、私たちは「終わった」と感じます。
イエスが十字架の上で息を引き取ったとき、人々もそう思ったでしょう。すべてが終わった、と。
しかし、神の物語は「終わった」と言われたその場所から始まります。
十字架は敗北ではなく、愛の完全な成就でした。死は終わりではなく、復活への門でした。
そして、その門は、「神が沈黙している」と思えるほどの暗闇の奥に開かれていたのです。
あなたの人生にも、終わったと思える出来事があるかもしれません。
けれど、神の視点から見れば、それは“まだ途中”です。神は、終わりのように見える場所を、新しい始まりの入口へと変えることのできる方だからです。
結び ――苦しみの奥で出会う愛
「苦しみの玄義」は、私たちに苦しみの意味を教えるためのものではありません。
むしろ、意味がわからないままでも、神がそこにいるという事実を思い出すためのものです。
ゲッセマネで、杯は取りのけられませんでした。
鞭打ちも、嘲りも、十字架も、避けることはできませんでした。
しかし、そのすべての出来事が、神の愛の最も深い表現となりました。
同じように、あなたの人生の苦しみも、今はただの痛みとしか思えないかもしれません。
けれど、その痛みのただ中で、神は沈黙のうちに働いています。
あなたの涙は見過ごされていません。あなたの呻きは、神の心の奥深くに届いています。
ロザリオの珠を一つひとつたどりながら、どうか思い出してください。
神は、あなたの最も深い苦しみの中でこそ、最も深くあなたに近づいておられるということを。
そして、その場所から、あなたの新しい命の物語が静かに始まっているということを。