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おうち黙想

光の神秘 教皇フランシスコとともに歩くロザリオの祈り

 教皇フランシスコは、神の国とは「いまここに息づく光」であると信じていました。
 「光の神秘」に示される、イエスの洗礼、公生活、しるしと宣教のすべての出来事に、彼は福音が現実の中に宿る瞬間を見出してきました。
 そこにあったのは、遠くにある神ではなく、「人の傍らにとどまる神」の姿です。
 この神秘を祈るとき、私たちもまた、彼が照らしてくれた光の中に身を置き、日々の小さな出来事の中で、神の国の気配に目をこらしていきたいと思います。

光の神秘

第一の神秘:ヨルダン川での洗礼

 「イエスは罪びととして列に並ばれました。
 罪はなかった方が、他のすべての人と同じように川に入り、頭を垂れ、悔い改めの洗礼を受けられた。
 なぜでしょうか?それは、神が“外からではなく、内側から救う”方であるからです。
 神は距離をとって人間を裁くのではなく、人間のただ中に降り、同じ水に入り、同じ泥に足を濡らし、同じ重荷を担う方なのです。」
 — 2020年1月12日 主の洗礼の祝日・説教
 フランシスコにとって、イエスの洗礼とは「神の連帯の原点」です。
 無垢なる方が罪びとの群れに加わり、外からではなく内から救う——これが彼の神観の核心にあります。
 教皇は、神が人の汚れに触れ、恥や痛みをともに担うことによって、救いが始まると語りました。それは、清らかさではなく、共にいることによる聖性の証です。
 祈り:
 人間の列に加わり、水に沈まれた主よ、教皇フランシスコもまた、傷ついた人々の列に加わり続けました。
 どうか今、彼の魂を、あなたの連帯の水の中から、復活のいのちへと導いてください。
 彼が仕えたすべての人とともに、永遠の交わりの中に迎え入れてくださいますように。

第二の神秘:カナでの婚宴

 「マリアはただ一言、こう言いました——『あの人たちには、ぶどう酒がありません』と。
 これは、無関心ではない“気づき”の言葉です。困っている人を見て、黙っていない心。
 そしてイエスは、その“気づき”に応えて、時を早めて最初のしるしを行いました。
 奇跡は、必要に気づいた人と、耳を傾けた人との間に起こるのです。」
 — 2019年1月20日、カナの婚宴に関する説教
 この神秘は、教皇の霊性にとって非常に象徴的です。
 彼はいつも「声を上げない叫び」に耳を傾け、「足りないもの」への直感的な感受性を大切にしました。
 カナのマリアのように、「ない」ことに気づく眼差しと、それをイエスに差し出す信頼。フランシスコは、そうした祈りの在り方を体現した人物でした。
 祈り:
 主よ、ぶどう酒が尽きた人々に寄り添う心を持ち続けた教皇フランシスコの魂を、あなたのあふれる恵みで満たしてください。
 彼が気づき、差し出したすべての欠乏が、今やあなたの愛で満たされていることを、私たちが信じることができますように。

第三の神秘:神の国の宣教

 「福音とは、“制度”ではなく“出会い”です。
 福音を伝えるとは、教義を教えることだけではありません。
 それは、苦しんでいる人に、神がそばにいることを知らせることです。
 福音は、現実のただ中に入り、体を汚しながら、手を差し伸べるものです。」
 — 『福音の喜び』24–27
 この神秘で語られる「神の国の宣教」とは、フランシスコにとって「神の近さ」の知らせに他なりません。
 彼は、神が「理想の場所」から人を呼ぶのではなく、「今ここ」へと降ってこられる方であることを、一貫して証ししてきました。
 宣教とは、人の苦しみの現場に立ち、声なき者に神の声を届けること。教皇はその現場に自ら身を置き続けました。
 祈り:
 主よ、制度を超えて出会いを選び、福音を生きることに徹した教皇フランシスコの魂を、いま神の国の完成のうちに迎え入れてください。
 彼がまいた言葉の種が、世界にあなたの国を実らせ続けますように。

第四の神秘:変容

 「タボル山でイエスは姿を変えましたが、それは“しばしの輝き”ではありません。
 あの光は、十字架への道を示す前触れです。
 弟子たちは、あの栄光を見て、自分たちの思い描く勝利のイメージを重ねました。
 しかしイエスは言います、『この姿は、わたしが苦しみを通して示す姿なのだ』と。
 神の栄光は、いつも人間の思い描くかたちとは異なります。」
 — 2020年 四旬節第二主日
 フランシスコの「変容」の理解は、見える光にとどまりません。
 彼は繰り返し、栄光と苦しみの一致を強調します。神の臨在は、輝きだけでなく、十字架に向かう覚悟の中にこそ宿る——それが彼の霊性です。
 光は、現実逃避のビジョンではなく、日々の十字架を照らす神のまなざしとして現れるのです。
 祈り:
 主よ、山上の輝きと、谷底の闇とを共に歩んだ教皇フランシスコを、いま永遠の光の中へと導いてください。
 彼が望んだ栄光とは、地上の勝利ではなく、あなたのまなざしの中で小さく生き抜くことでした。その歩みに、あなたの光が注がれていますように。

第五の神秘:聖体の制定

 「聖体とは、愛のしるしであると同時に、“傷ついた体のしるし”です。
 わたしたちは、裂かれたパン、流された血に触れながら、神の『わたしはあなたのためにいる』という言葉を受け取ります。
 聖体を拝領するとは、自分のためだけではなく、他者のために裂かれる者となることでもあります。」
 — 2014年 キリストの聖体の祭日
 フランシスコにとって、聖体とは神の弱さに触れる場所です。
 それは祝宴であると同時に、連帯と自己放棄の極み。
 彼は、聖体を「単なる恵みの受容」ではなく、「他者のために生きる力」として語り、私たちもまた「裂かれるパン」となるように呼びかけ続けました。
 祈り:
 主よ、裂かれたパンであるあなたに倣って、地上で自らを裂き続けた教皇フランシスコの魂を、永遠の食卓に招いてください。
 彼のささげたすべての愛と労苦が、あなたの命のうちに満たされていますように。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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