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おうち黙想

第二週:喜びの玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

弱った魂がもう一度歩き出すために

――「喜びの玄義」に見る、静かな再生の道

Ⅰ 疲れ果てた魂が必要としている「喜び」とは何か

 「喜びの神秘」と聞くと、多くの人は何か明るく前向きなもの、歓喜に満ちた出来事を想像するかもしれません。
 しかし、私たちが本当に必要としている「喜び」は、そうした派手な感情の爆発ではありません。
 元気を失い、心が暗く沈み込んでいるとき、無理やり笑顔をつくったり、自分を奮い立たせようとしたりしても、かえって空虚さだけが募ることがあります。
 本当に魂を立ち上がらせる「喜び」とは、静かで、深く、そして傷ついた心の底にまで届いてくる喜びです。
 それは、今の自分のままでよいと告げ、たとえ何もできなくても存在が愛されているという事実を思い出させてくれるような喜びです。
 ロザリオの「喜びの玄義」は、まさにそのような種類の喜びを、五つの出来事を通して私たちに思い起こさせてくれます。
 この黙想では、各玄義を歴史的・神学的な順序でたどるのではなく、「疲れている人の魂にどう響くか」という観点から味わっていきます。
 それは、元気を出すための努力論でも道徳的教訓でもありません。むしろ、「力を出せない」ままのあなたが、それでも神の喜びの中に包まれているという現実に目を開く時間です。

Ⅱ 第一の喜び ― 受胎告知:「恐れのただ中で始まる喜び」

 私たちは元気を失うと、自分には何の可能性もないように思えてしまいます。
 何をやってもうまくいかず、何を選んでも間違っている気がして、自分は役立たずだと感じる――その思いが心の奥にこびりつくと、「もう何も始まらない」と思ってしまうのです。
 しかし、受胎告知の喜びは、「何も始まらない」と思っている場所にこそ神の言葉が届くということを教えてくれます。
 マリアは大きな使命を託された瞬間、歓喜ではなく「恐れ」に包まれました。「こんな自分に務まるのか」と。
 けれど神は、「恐れるな」と告げます。つまり、神の働きは「恐れがなくなってから」始まるのではなく、「恐れの中で」始まるのです。
 あなたが今、何もできないと感じているなら、それは神の働きがまだ始まっていないのではなく、今まさに始まろうとしているしるしかもしれません。
 神は、“準備のできた人”ではなく、“ただ「はい」と言う人”を選ばれます。
 そして、その「はい」は立派な声で言わなくてもいい。涙混じりの声でも、かすかなささやきでも、神はそれを聞き入れられます。

Ⅲ 第二の喜び ― 訪問:「自分が誰かの喜びになっている」

 落ち込んでいるとき、私たちは自分の存在が誰の役にも立っていないように感じます。
 何の価値もない、必要とされていない――そんな思いが、さらに心のエネルギーを奪っていきます。
 しかし、マリアがエリザベトを訪れたとき、マリア自身はまだ出産もしておらず、何ひとつ「結果」を出していませんでした。
 それでも、彼女の存在がエリザベトと胎内の子ヨハネに喜びをもたらしたのです。
 私たちも同じです。何も「できていない」と思っている自分の存在が、誰かにとっては希望のしるしになっている。
 あなたの声、あなたの顔、あなたの祈り、あなたがただ「そこにいること」――そのすべてが、思いもよらぬかたちで誰かの心を温めています。
 「自分には価値がない」と思っているそのとき、神はあなたを通して誰かに喜びを運んでいるかもしれません。
 ロザリオの珠を指でなぞるその小さな動作さえ、世界のどこかで誰かの心を支える祈りとなっているのです。

Ⅳ 第三の喜び ― 主の降誕:「何も整っていなくても、神は来られる」

 疲れきった心は、しばしば「このままでは神は来てくださらない」と思い込んでしまいます。
 もっときれいな心になってから、もっとちゃんと祈れるようになってから、もっと“ふさわしい”自分になってから、神は訪れてくださるのだと。
 けれど降誕の喜びは、その思い込みを根底から覆します。
 神が人となって来られたのは、清らかな宮殿でも、整えられた聖堂でもなく、不完全で汚れた家畜小屋でした。
 世界の中心ではなく、誰も注目しない辺境の地に、神は生まれてくださいました。
 これは私たちにとって、決定的な慰めです。
 今の自分がどれほど整っていなくても、心がボロボロでも、神は「そんな場所こそ、わたしの居場所だ」と言ってくださる。
 「今のあなた」でよい、「今のあなた」に来たい――それが神の喜びなのです。
 だから、力がなくても祈ってください。何も言葉が出なくても珠を握ってください。
 その沈黙の祈りの中で、神は必ずあなたの“馬小屋”に訪れてくださいます。

Ⅴ 第四の喜び ― 神殿奉献:「手放すときに訪れる喜び」

 私たちが落ち込んでいるとき、「自分が失ったもの」ばかりが心を占めます。失敗した過去、取り戻せない時間、叶わなかった夢――それらを思うたび、心はさらに沈んでいきます。
 けれど、マリアとヨセフが幼子イエスを神殿に捧げたとき、それは単なる儀式ではありませんでした。
 それは、「自分の大切なものを神の手にゆだねる」という大胆な手放しでした。
 不思議なことに、人は手放すとき、失うだけではありません。
 むしろ、手放すことで初めて、自分が“託されている”ことに気づくのです。
 「これは私のものではなく、神が私に預けてくださったものだ」と気づいたとき、心には静かな自由と感謝が生まれます。
 あなたが今、「もう終わってしまった」と思っていることも、神の大きな物語の中では、まだ終わっていないのかもしれません。
 手放すことは、諦めではなく、新しい喜びへの入り口なのです。

Ⅵ 第五の喜び ― 神殿での発見:「失っても、神は見つかる」

 人生の中で、私たちはときに「神を見失った」と感じます。祈っても何の応答もなく、空虚な時間だけが過ぎていく。信じることがむなしくなり、「神は本当にいるのか」とさえ疑ってしまう。
 マリアとヨセフもまた、少年イエスを見失いました。三日間も探し回って、やっと神殿で見つけたのです。
 その三日間は、神を失ったように感じる時間だったでしょう。けれど、実際にはイエスは神殿に、つまり父の家におられました。
 神は、見失ってもいなくなりません。
 あなたが神を見失ったと思っても、神はあなたを見失っていません。
 祈りが届いていないと思っても、神はその沈黙の中で確かに働いています。
 ロザリオの祈りは、そんな“見えない神”を探し続ける時間です。
 珠を一つずつたどるうちに、気づけば神はもうそこにいた――その気づきこそが、第五の喜びの神秘が語りかける希望です。

結び ――「喜び」は遠くにあるものではない

 「喜びの神秘」とは、人生が順調なときのための物語ではありません。
 それは、心が傷つき、光を見失い、立ち上がる力さえ出ないときにこそ、あなたの足もとで静かに湧き上がってくる泉のようなものです。
 恐れのただ中で始まり、何もできないまま喜びをもたらし、不完全な場所に降りて来てくださる神。
 失ったと思ってもなお働き続ける神。
 その神の喜びは、どんな暗闇の中にも届き、私たちを再び生かします。
 ロザリオの祈りは、その喜びと出会うための「道しるべ」です。
 考えることをやめ、珠を一つずつ指でたどる中で、心の奥底からささやく声が聞こえてくるでしょう。
 「恐れるな。わたしはここにいる。」
 「このままのあなたが、わたしの喜びだ。」
 そしてその声を聴いたとき、あなたは気づきます。
 ――喜びは遠くにあるのではない。
 ――喜びは、今、あなたの中で静かに息づいているのです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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