「苦しみの神秘」は、まさに彼の祈りと証しの中心を映し出すものです。
ゲッセマネでの祈り、鞭打ちと嘲り、十字架を担うイエス——その一つひとつに、彼は現代の苦しみと神のあわれみの交差点を見出していました。
この神秘を祈りながら、十字架の道を歩むすべての人と連帯し、教皇が注ぎ続けたまなざしの優しさを、私たちのうちにも宿していけますように。
苦しみの神秘
第一の神秘:ゲッセマネでの苦しみ
「イエスは祈りの中で、すべての人の痛みを抱えました。
彼はただ自分の死を恐れていたのではありません。すべての人の罪と孤独を、すでにその時に負っていたのです。
ゲッセマネの苦しみとは、人間が最も一人になる場所で、神が共にいてくださるという神秘なのです。
祈りは“現実から逃げること”ではありません。現実の重みを、神のもとへと携えていくことです。」
— 2020年 聖週間の黙想
教皇フランシスコは、祈りを「心の慰め」ではなく、「神と共に現実を担うこと」として説いてきました。
ゲッセマネは、イエスが最も深く人間の恐れと苦悩に触れた場所であり、フランシスコにとっても、神の臨在が「沈黙」というかたちで現れる場所です。
祈りとは、神の沈黙に絶望せず、そこにとどまり続けることで養われる「連帯」の行為なのです。
祈り:
主よ、孤独と恐れの中で祈り続けたあなたの御子の姿を、教皇フランシスコは深く見つめ続けました。
どうか、彼の魂が今、あなたとの沈黙の交わりのうちに憩うことができますように。
現実から逃げなかった祈り手に、あなたの慰めと栄光をお与えください。
第二の神秘:鞭打たれるイエス
「鞭打ちとは、単なる身体的暴力のことではありません。それは人の尊厳を打ち砕く行為です。
今日、多くの人が無関心や構造的不正義、暴力の連鎖によって打ちたたかれています。
わたしたちはイエスを見つめるだけではなく、彼の体である人類の痛みを見つめるように招かれています。」
— 2016年 聖金曜日 黙想
この神秘におけるイエスの苦しみを、フランシスコは現代の鞭打たれた人々の姿と重ねました。
傷つけるのは手ではなく、言葉であり、制度であり、無関心です。
教皇は、イエスを十字架につけ続けているのは「今の私たち」だと、繰り返し呼びかけてきました。
祈り:
主よ、鞭打たれたあなたの体に、教皇フランシスコは今の世界の苦しみを見出していました。
どうか彼の魂が、いま永遠の癒しと憩いに包まれますように。
そして私たちも、打たれている兄弟姉妹の苦しみに目をそらさず歩めますように。
第三の神秘:茨の冠をかぶせられるイエス
「イエスは嘲られ、侮辱されました。それに対して沈黙で応えました。
沈黙とは、あきらめではありません。沈黙とは、悪と同じ土俵に立たない愛の行為です。
現代においても、嘲りと冷笑があふれています。
その中で、侮辱されても怒らず、裁かず、黙って相手を赦す力を持つ人の姿が、神の姿を映します。」
— 2019年 聖週間の黙想
フランシスコは、十字架の前で黙って立つ信仰を何よりも尊んでいました。
茨の冠のイエスは、権威の頂点にあるように見えて、あらゆる人の下に降りる神の姿。
沈黙は、無力のように見えて、最も強い愛の言葉となります。教皇もまた、多くの批判や曲解に対して、静かに、祈りをもって応え続けた人でした。
祈り:
主よ、侮辱と冷笑の中でも、心を騒がせずに愛し抜いたあなたの沈黙のうちに、教皇フランシスコの魂を憩わせてください。
声なき者に心を寄せ続けた彼の祈りを、あなたの国の冠として受け取ってくださいますように。
第四の神秘:十字架を担われるイエス
「十字架を担うとは、自分の苦しみだけを負うことではありません。それは、他者の苦しみを“ともに担う”ことです。
誰かの重荷を代わりに背負うこと——そこに神の姿が現れます。
イエスは倒れ、また立ち上がりながら、すべての苦しむ者と連帯する道を歩みました。
わたしたちもまた、その後ろを、無理なく、しかし確かに歩むよう招かれているのです。」
— 2021年 四旬節メッセージ
この神秘は、教皇フランシスコの生涯そのものでした。
戦争、難民、環境破壊、社会の周縁に生きる人々——彼は教会をそれらの「十字架をともに担う場」として描いてきました。
十字架は、遠くで拝むものではなく、他者の荷物に手を差し伸べるその瞬間に、現実の中で担われていくのです。
祈り:
主よ、苦しみを負う人々のために、自ら十字架の重みを担い続けた教皇フランシスコの魂を、あなたのあわれみのうちに迎えてください。
彼が担い続けたすべての痛みが、いまあなたの十字架のうちに結ばれていますように。
第五の神秘:イエスの十字架上の死
「十字架上でイエスは言われました。『父よ、彼らをお赦しください』と。
それは、神の愛がどこまで届くかを示す言葉です。
イエスは最後まで、誰も裁かず、誰も見捨てず、すべてを委ねて死にました。
それは、敗北の姿ではありません。
十字架は、すべてを赦し、すべてを抱きしめ、すべてを神に返す愛の勝利なのです。」
— 2020年 聖金曜日 黙想
この神秘において、フランシスコの福音理解は凝縮されます。
十字架は「敗北」ではなく、「愛の完成」。
それは赦しの極みであり、沈黙の中でなお愛し続ける神のかたちでした。
教皇はその十字架の前に立ち尽くし、世界の傷と苦悩をそっと置いて祈り続けました。
祈り:
十字架上ですべてをゆだねられた主よ、あなたの愛の完成に、教皇フランシスコの魂をあずけます。
その静かな死が、今、あなたの御手に抱かれ、真の平和へと変えられていますように。
地上での十字架の労苦が、天でのいのちと栄光に結ばれますように。