書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

週日の福音解説〜水曜日編〜

語られる沈黙、実る聴き方(年間第16水曜日)

マタイによる福音書13章1–9節

1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。 2 大勢の群衆が周囲に集まってきたので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。 群衆はみな、岸辺に立っていた。 3 イエスは喩えで多くのことを語られた、「種を蒔く人が種を蒔きに出ていった。 4 蒔いているうちに、ある種は道端に落ちた。 すると、鳥が来て、それらを食い-ばんでしまった。 5 ほかの種は土の薄い岩地に落ちた。 そこは土が深くなかったので、すぐに芽を出した。 6 しかし、日が昇ると焼かれ、根がなかったので、枯れてしまった。 7 ほかの種は茨の中に落ちた。 やがて茨が伸び、それらを覆いふさいでしまった。 8 ほかの種は善い地に落ちた。 やがて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった。 9 耳のある者は聞きなさい」。

分析

 いわゆる「種を蒔く人のたとえ」は、イエスの語るたとえ話の中でも最も有名でありながら、その解釈を深めるほどに神の国の逆説が浮かび上がってくる、非常に象徴的な物語です。語りの構造も豊かで、物語の空間、動き、聞くという行為を中心に神学的な意味が展開されていきます。
 まず冒頭の状況設定に注目すべきです。イエスは「湖のほとりに座っておられた」—これは教師の姿勢であり、落ち着いた教えの始まりを示します。しかし人々が集まりすぎたため、舟に乗って教えるという、非日常的でありながら象徴的な構図が生まれます。イエスが舟に乗り、水の上から語りかける姿は、まるで天地創造の霊が水の面を漂っていたように、新しい創造の言葉が混沌に向かって語られていく情景を思わせます。
 続くたとえは極めてシンプルです。種が四種類の地に落ち、それぞれ異なる運命をたどります。しかし、ここで特に重要なのは、「種」は常に同じであり、「蒔く人」も同じだという点です。変わるのは地、つまり受け取る側の状態です。神の言葉がどれほど純粋で力強くても、それが根づくかどうかは聞く者の心に依存しているという、ある意味で厳しく、しかし解放的なメッセージがここにはあります。
 4つの地に落ちた種のうち、3つは失敗に終わります。道端では鳥に食べられ、岩地では根付かず、茨の中では窒息します。つまり、失敗が成功を圧倒しているのです。成功したのはたった一つの「善い地」だけです。しかしそこでは、実を結ぶ量が30倍、60倍、100倍と、圧倒的な豊かさが語られます。これは、神の言葉の働きが表面的な効率では測れず、一度根付けば想像を超える実りを生むという逆転の論理を描いています。
 最後の「耳のある者は聞きなさい」という呼びかけは、単なる結びの言葉ではありません。これはたとえの鍵そのものであり、「聞くこと」がこの物語の主題であることを暗示しています。

神学的ポイント

 このたとえの根幹にある神学的主題は、「啓示の寛大さと受容の責任」です。蒔く人は、選別することなく、種をすべての場所に等しく蒔きます。つまり、神の言葉は制限されず、無差別に、惜しげもなく与えられるのです。ここには、神の普遍的な愛と忍耐、期待が込められています。
 しかしその一方で、種が根付き、実を結ぶかどうかは「地の状態」、すなわち受け取る人の心に大きく依存します。道端に落ちた種は、言葉が受け取られる前に奪われた状態であり、岩地に落ちたものは一時的な感情的反応のみにとどまり、茨の中では世の心配や富によって窒息する状態です。これは、神の言葉が真に浸透し、変容をもたらすためには、深い内的受容と継続的な応答が必要であることを意味します。
 イエスはこの段階では解釈を与えません。それによって、たとえは「問い」として、聞く者自身の内面を映し出す鏡となります。ここで私たちが問われているのは、自分がどの地であるのか、どのように「聞いている」のかという自己認識です。
 また、このたとえが示すのは、「成功する伝道」ではなく、「無駄の中にこそ宿る神の忍耐」です。三分の四が失敗に終わるという非効率の中で、それでも蒔き続ける蒔く人の姿は、結果を気にせず、ただ忠実に語り続ける神の姿そのものです。

講話

 このたとえを読むとき、多くの人は「どの地か」に焦点を当てがちです。もちろんそれも大切です。しかし、もう一歩踏み込んで考えてみましょう。神の言葉は、いかなる「地」にも惜しまず注がれているという事実は、私たちに何を語っているのでしょうか。
 それは、神が私たちをすでに価値ある存在として見ておられ、たとえ道端であっても、岩地であっても、茨であっても、決して見捨てることなく、可能性を信じて語り続けておられるということです。神は実りを見てから語るのではなく、語ることで実りを期待するのです。
 また、たとえ話であるがゆえに、私たちは一つの「地」だけではありません。ある部分では善い地であり、また別の部分では茨や岩かもしれません。心は単純ではなく、層のある畑のようなものです。だからこそ、このたとえは裁きの物語ではなく、希望の物語なのです。私たちは、何度でも耕され、何度でも聞き直すことができます。
 イエスは言います、「耳のある者は聞きなさい」。この言葉は、物語の最後に置かれることで、聞くとは受け取るだけでなく、耕し、実らせる行為であるという真実を私たちに突きつけます。聞くことは、行動の始まりです。沈黙を貫くのではなく、聴きとった言葉を人生に根付かせ、実を結ぶ者へと変わっていく、それが信仰という営みです。
 種は今も、惜しみなくあなたに向かって蒔かれています。あなたの心のどこに、それは落ちるでしょうか? そして、そこからどんな実が実るでしょうか?

  • 記事を書いたライター
  • ライターの新着記事
大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

  1. すべてを手放して、すべてを得る(年間第17水曜日)

  2. 語られる沈黙、実る聴き方(年間第16水曜日)

  3. 隠された神、現される神(年間第15水曜日)

RELATED

PAGE TOP