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これってどんな種?

み旨を感じるという種 死者の日(ヨハネ6・37〜40)

 子どもは、成長の中で「自立」する時期があります。その時には、「これは、私のおもちゃ。これは、私のカバン、これは私の○○と」というように【これは、私の】としっかり自分のものである意識するそうです。ですから、幼稚園などで一つの遊具やおもちゃなどで遊んでいる子に「他のお友達が遊びたがっているから、譲ってあげてね」というように大人の目線で促すと、機嫌が悪くなったり、怒ったりするのはその子が「自立して行っている」ということなのだそうです。

 この子が遊具やおもちゃを他のお友達に譲らないというのは、意地悪やエゴではなく、その子が成長する中で大切な【意志】、【自立】が確立しているということなのです。大人になってくると自分の【意志】に固執しすぎる人、もしくは、周りの状況に応じて変わる人も出てくるかもしれません。大切なのは、その時にバランスではないでしょうか。

 きょうのみことばは、イエス様が人々に「終わりの日に、復活させることである」と言われる場面です。このみことばの前では、イエス様が5000人ほどの群衆に5つのパンと2匹の魚で満腹させる奇跡がありました(ヨハネ6・1〜15参照)。さらに、イエス様は、ご自分の所に来た人々に「わたしが命のパンである。わたしの所に来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、もはや飢えることがない」(ヨハネ6・35)と言われます。

 イエス様が言われた「もはや飢えることがない」ということは、【天の国の宴】のことではないでしょうか。きょうのみことばは、イエス様が私たちをその【天の国の宴】に招いてくださる、【終わりの日に、復活させる】ことをお約束されておられます。ただ、残念なことにどうしてもこの【天の国の宴】に入れない人も出てきます。それは、「あなた方はわたしを見ているのに信じない」(ヨハネ6・36)とイエス様が言われるように、イエス様を【信じない人】もいるようです。

 きょうのみことばは「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしの所に来る。わたしは、自分の所に来る者を決して追い出さない」という言葉から始まっていります。私たちの中では、「○○さんから推薦した人なら大丈夫だ」とか「君を○○に推薦するよ」という言葉を耳にすることでしょう。推薦するためには、その人が「信用できる人」という確信がないと推薦できません。イエス様は、「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのもとに来る。」と言われます。このことは、おん父から【推薦】された人と言ってもいいのではないでしょうか。イエス様は、おん父から【推薦】された人を決して追い出す方ではないのです。

 私たち一人ひとりは、パウロが、「わたしたちすべてのために、ご自分の子をさえ惜しまずに死に渡された神が、どうして御子に添えてすべてのものをわたしたちにくださらないことがありましょうか。誰が、神に選ばれた者たちを訴えるでしょうか。」(ローマ8・32〜33)と言っているように【選ばれた者】なのです。ですから、イエス様は、私たちを決して【追い出さない】とお約束されるのです。

 イエス様は「わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を果たすためではなく、わたしをお遣わしになった方のみ旨を行うためである」と言われます。イエス様は、ご自分の【意志】に固執されるのではなく、いつもおん父の【み旨】を最優先されるお方なのです。それは、私たち一人ひとりを愛されておられるからではないでしょうか。私たちは、おん父とイエス様からの【アガペの愛】によって生かされているとともに【天の国の宴】に招かれているのです。

 さらにイエス様は、「わたしをお遣わしになった方のみ旨とは、わたしに与えてくださったすべてのものを、わたしが一人も失うことなく、終わりの日に、復活させることである」と言われます。イエス様は、「父がわたしにお与えになる者はみな」と言われ、再び「わたしに与えてくださったすべてのものを」と繰り返されます。私たちは、どんなに感謝してもしきれないほどの【愛】を頂いているのです。イエス様は、おん父からご自分のもとに与えてくださったものを「終わりの日に、復活させる」と約束されます。

 きょうのみことばの中には、「お与えになる者」とか「与えてくださったすべてのもの」というように【者】、【もの】という言葉が繰り返されます。私たちは、きょうのみことばを味わう中でこの【者】、【もの】にご自分の名前を入れてみると、よりいっそう私たちがおん父から愛されているのかわかるのではないでしょうか。

 イエス様は、「実に、わたしの父のみ旨とは、子を見て信じる人がみな、永遠の命を持ち、わたしが、その人を終わりの日に復活させることである」と言われます。きょうのみことばは、イエス様がご自分の【意志】ではなく、おん父の【み旨】に従われ、私たち一人ひとりを【終わりの日に復活させる】ということを記しています。私たちは、【神の国の宴】に入ることができるように、日々の生活の中でおん父の【み旨】を感じながら歩むことができたらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. み旨を感じるという種 死者の日(ヨハネ6・37〜40)

  2. わたしの祈りはという種 年間第30主日(ルカ18・9〜14)

  3. 倦むことなく祈るという種 年間第29主日(ルカ18・1〜8)

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