書籍情報、店舗案内、神父や修道士のコラムなど。

みことばの響き

神に願う 年間第30主日(ルカ18・9~14)

 神様に願う時私たちはどんな仕草をとるでしょうか。ファリサイ派の人は堂々と胸を張って言います。「わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でもない」と。彼らは信徒の身分ではあっても、祭司の典礼を中心とする生活を保ち、衣食住にわたって彼らが解釈した「律法」を生活の中に浸透させようとしました。自分たちを汚れから離れた仲間と考え、伝統を遵守するエリート集団としての自覚を持っていました。そんな彼は徴税人に対して、「この徴税人のような者ではない」と語ります。「この」というのは、「こいつ」というようなとても軽蔑的な表現に感じられます。例えば、「放蕩息子」のたとえの中で、父のもとに帰ってきた弟のために(父は)宴会を催し、そのことに腹を立てた兄は弟のことを、父に対して「このあなたの子」(ルカ15・30)と言います。自分の弟なのに、「この」とさげすんだ表現です。

 それに対して徴税人は、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしをあわれんでください」と語ります。事実、ローマ政府は税額の査定をするだけで、その取り立てについては、徴税人に任せていましたので、彼らは相当の利幅をとって私腹を肥やすことができました。そのためにローマの属州のいたる所で徴税人は悪評でした。さらにユダヤ人は、徴税人が外国の支配者(ローマ帝国)のために働く人間であること、また異教徒との接触によって汚れを受けた者であるとして、徴税人を憎んでいました。このように、評判が悪い立場でしたが、とても謙虚に祈っています。「遠くに立つ」「目を天に上げようともしない」「胸を打つ」「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言った言葉は、自分のことを悔やみ、神様に対する謙虚な姿勢がよく見えるのではないでしょうか。

 徴税人のように、自分のありのままの姿を過大視することなく、謙虚に神に祈りたいものです。

RELATED

PAGE TOP