今日のみことばには、一人のやもめを通して執念深く願い求める大切さがあります。特に印象的な言葉は、裁判官がやもめに対して「さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」と思うところです。「さんざんな目に遭わす」はギリシア語で「ヒュポピアゼー」が使われ「頭を打つ」「目にあざができるほど殴る」ような意味を持つ言葉です。裁判官は権力を持っていますが、やもめはそれにおびえることなく、むしろ自分の命をかけてでも願い求め、勇敢に振る舞う態度や雰囲気を感じさせます。また裁判官はこのやもめの願いを聞き入れなければ、裁判官自身の命が危ないくらいの意味合いにも感じます。こうしたやもめのような我慢強い願いをイエスは私たちに求めているのではないでしょうか。
パウロ家族の創立者はヤコブ・アルベリオーネ神父です。彼は痩せ形で、体力的にも非常に弱い人でした。しかし、シンはしっかりしていました。こんなエピソードがあります。アルバの修道院建設中のこと、レンガ代の借りが未払いでした。裁判所に呼び出された神父は、借金を認めたが、猶予を願い、さらに借りで新しいレンガ供給を頼みました。貸主のソルバ氏は、怒り心頭に達し、神父を刑務所に入れろと要求。神父はびくともせず、「裁判長、ソルバさん。私たちは借金の埋め合わせがつくまで、無給で働くように送ることぐらいしかできません。それがだめなら、刑務所に行くことをお受けします。そうしたら、私も少し休息できましょう。ずいぶん疲れていて、立っているのがやっとですから。」善良はソルバ氏の側が訴えを引っ込め、債権を放棄して決着がつきました。しかし、アルベリオーネ神父は、自分は断食してでも負債を支払うと約束。やがてレンガかまどを据え、時代遅れではあったが、少年たちとともに無我夢中で働き、負債を返し、ついにはソルバ氏の商売敵になりました。(ステファノ・ラメラ著、大滝玲子訳「今世紀の一大驚異」参照)
我慢強く求める心を今日の福音やアルベリオーネ神父の行動から考えてみたいものです。
