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おうち黙想

第四週:栄えの玄義〜元気が出るロザリオの黙想〜

すべての涙は光になる

――「栄えの玄義」に見る、神の成就と成熟の物語

Ⅰ 「復活」とは、“やり直し”ではなく“新しい生”

 人が深く疲れたとき、心のどこかでこう思っています。
 「もう元には戻れない」と。
 あの頃の自分には戻れない、失ったものは取り戻せない、間違った選択は取り消せない――そう感じるとき、未来は閉ざされたように見えます。
 「栄えの玄義」が語るのは、その思い込みを根底から覆すメッセージです。
 それは、「元に戻る」ことではなく、「新しく生き直す」こと。
 過去がなかったことになるのではなく、過去が新しい光の下で意味を持ち始める――それが、神の“栄え”の働きです。
 私たちが信仰の道で出会う「復活」「昇天」「聖霊降臨」「マリアの被昇天」「冠戴」は、ただのハッピーエンドの連続ではありません。それらは、「苦しみが終わったあとに“何が起こるのか”」という物語ではなく、「苦しみそのものが“変えられていく”」という驚くべきプロセスなのです。
 この黙想では、栄えの玄義を、「人生の破片が再び光を帯びていく過程」としてたどっていきましょう。

Ⅱ 第一の栄え ― 復活:「終わりが新しい命の入口になる」

 復活とは、死がなかったことになることではありません。
 イエスの体には、復活のあとも釘の痕が残っていました。
 それは、苦しみが「消える」ことではなく、「癒されて抱きしめられる」ことを意味します。
 あなたの人生の中にも、取り返しのつかない傷があります。
 後悔も、失敗も、壊れてしまった人間関係も――それらは「消せない」ものです。
 けれど神は、それらを消すことよりも深いことをなさいます。それらを“抱きしめて”、新しい命の一部にしてくださるのです。
 イエスの復活は、苦しみと死を通ったからこそ意味を持ちます。同じように、あなたの人生の喜びも、傷を経たからこそ深まるのです。
 「終わった」と思える場所から、神は新しい物語を始めます。復活とは、“終わり”が“入口”になることなのです。

Ⅲ 第二の栄え ― 昇天:「見えなくなっても、共にいる」

 復活の後、イエスは弟子たちの目の前で天に上げられ、姿が見えなくなりました。
 彼らは途方に暮れたでしょう。主が共にいてくださった時間は終わったのだ、と。
 しかし、昇天は「離れていった」出来事ではありません。それは、イエスが“どこにでも共におられる方”へと変わられた瞬間でした。
 目には見えなくなっても、心の奥深くで、彼はずっと共におられるのです。
 私たちも同じ経験をします。支えてくれた人がいなくなったり、信頼していたものが崩れたりして、孤独に放り出されたように感じるときがあります。
 けれど、その「いなくなった」と思える出来事は、存在がより深いかたちで共にあるようになるための扉であることがあるのです。
 たとえば、大切な人を失ったあとに、その人の言葉や愛が以前よりも深く自分の中に響いてくることがあるでしょう。神との関係も同じです。見えないことは、いないことではない。むしろ、それは“内に宿る”ためのかたちです。

Ⅳ 第三の栄え ― 聖霊降臨:「弱さが力へと変えられる」

 ペンテコステの日、弟子たちは恐れと不安の中に閉じこもっていました。
 未来へのビジョンも、行動する力もありませんでした。
 しかし聖霊が降ったとき、彼らは突然、外へと出て行き、世界へと福音を告げ始めます。
 重要なのは、聖霊が彼らを「別人」にしたのではないということです。
 弟子たちは依然として同じ弱さを抱えていました。失敗の記憶も、臆病な性格もそのままです。
 けれど、その弱さが神の力の通り道へと変えられたのです。
 私たちの中にも「もう無理だ」と思う弱さがあります。
 しかし神は、その弱さを取り除くのではなく、そこから力を湧き上がらせます。
 「自分ではできない」と気づいたとき、私たちは初めて、「神と共にならできる」と信じる場所に立つのです。
 ロザリオの祈りは、その聖霊の風を心に受け入れるための静かな準備です。
 珠を一つずつ指でたどる中で、弱さが恥ではなく、力の入り口であることを学んでいきます。

Ⅴ 第四の栄え ― マリアの被昇天:「人間の生は、神のもとへと運ばれる」

 マリアが天に上げられたことは、単なる「特別な聖人の栄誉」ではありません。
 それは、人間の生そのものが神の国に抱かれるという象徴です。
 私たちは、自分の人生が「神の大きな計画」とは無関係な小さな出来事の積み重ねだと思いがちです。
 けれどマリアの被昇天は、日々の小さな“はい”――ささやかな信頼や忍耐や祈りが、すべて神の国の一部に織り込まれていることを示しています。
 あなたの人生も同じです。
 大きな成功や劇的な奇跡がなくても、神はあなたの人生のすべてを受け取り、それを天に運ばれるのです。
 涙も、小さな親切も、誰にも知られずに続けた祈りも、すべてが神の国の宝として抱かれます。
 「私の人生に意味があるのだろうか」と疑うとき、この神秘は静かにこう囁きます。
 ――「ある。すべてが、わたしのもとへと運ばれている。」

Ⅵ 第五の栄え ― マリアの冠戴:「愛がすべてを完成させる」

 この世では、「勝ち負け」「成功と失敗」「強者と弱者」という物差しが支配しています。
 けれど、マリアが天の元后として冠を受けたことは、神の国がまったく異なる尺度で動いていることを示します。
 マリアが選ばれた理由は、彼女が強かったからでも、功績を積んだからでもありません。
 ただ「神を信じ、愛し続けた」からです。
 神の国で価値あるものは、力や成果ではなく、愛し抜くことです。
 あなたの人生が今どれほど“負け”のように感じられても、神はそのような尺度であなたを見ていません。
 涙を流しながらも祈ったこと、人を赦すのに時間がかかっても諦めなかったこと、誰かのために小さな親切を積み重ねたこと――それらが、神の目には最も尊い冠です。
 ロザリオの最後の神秘は、こう語りかけます。
 「愛こそがすべてを完成させる」と。
 あなたが今の歩みの中でささやかでも愛を選び続けるなら、あなたもまた、神の冠に近づいているのです。

結び ――傷のある人生だからこそ、光は深くなる

 「栄えの玄義」は、“苦しみの反対”ではありません。
 それは、苦しみが神の手によって変えられた姿なのです。
 復活は、釘の痕が消えることではなく、傷が光に変わること。
 昇天は、見えなくなることではなく、より深く共にあること。
 聖霊降臨は、弱さを隠すことではなく、そこから力が湧くこと。
 被昇天は、人生の断片が神に抱かれること。
 冠戴は、愛がすべてを完成させること。
 私たちの人生も同じです。
 「もう終わった」と思える出来事、「何の意味もない」と感じた涙が、神の手に触れたとき、光を放ち始めるのです。
 その光は、若さや強さや成功よりもはるかに深く、静かで、確かなものです。

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大西德明神父

聖パウロ修道会司祭。愛媛県松山市出身の末っ子。子供の頃から“甘え上手”を武器に、電車や飛行機の座席は常に窓際をキープ。焼肉では自分で肉を焼いたことがなく、釣りに行けばお兄ちゃんが餌をつけてくれるのが当たり前。そんな末っ子魂を持ちながら、神の道を歩む毎日。趣味はメダカの世話。祈りと奉仕を大切にしつつ、神の愛を受け取り、メダカたちにも愛を注ぐ日々を楽しんでいる。

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