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これってどんな種?

主とともにという種 主の昇天(ルカ24・46〜53)

 きょうの典礼は「主の昇天」をお祝いします。ミサの集会祈願には「……苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。……キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。」とあります。このことは、私たちの歩みの目標ではないでしょうか。日々の生活の中でイエス様と一緒に永遠のいのちに入ることができるように祈っていきたいですね。

 きょうのみことばは、イエス様が弟子たちに使命を与えた後に、天に昇られる場面です。弟子たちは、復活されたイエス様に出会いますが、最初は幽霊を見ているのだと思います。イエス様は、彼らにご自分が復活されたことを分からせるために、手と足の傷を見せられまが、まだ弟子たちが喜びのあまり、まだ信じられずに不思議に思っていると、「ここに、何か食べ物があるか」と言われた後、弟子たちから渡された焼いた魚を一切れお食べになられます。イエス様は、ご自分が復活されたということを納得するために日常で体験を弟子たちの前で証明されます。私たちにとっても「主の復活」は、神秘ですので頭で理解できるものではありません。そんな私たちにイエス様は、特別なことではなく普段の生活を通してご自分を示されておられるのではないでしょうか。

 イエス様は、ご自分が復活されたことを弟子たちが理解したことを確認されてから、「……モーセの律法と預言者、そして詩編に書き記されたことは、すべて成就されねばならない」と話されます。この「律法」「預言書」「詩編」とは、旧約聖書全体のことを指しているようです。イエス様は、長い旧約の時代を経ておん父がイスラエルの民にご自分の子を遣わされたことを弟子たちに話されます。これは、イエス様が弟子たちと生活してきたことを改めて理解するために話されたのではないでしょうか。私たちは、一度体験したことは、体が覚えていてたとえ時間が経ってからもその場面に戻ることが出来ます。イエス様は、弟子たちにまず、ご自分が何のためにこの世に遣わされたのかをはっきりと理解した上で、彼らに使命をお与えになられます。

 イエス様は、まず、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれます。私たちは聖書に書かれてあることを理解するために、註解書を読んだり、神学者の講話を聞いたりと知識からみことばを理解しようとします。もちろん、そのことも必要なことですが、もっと大切なことは、イエス様に私の心を開いていただくことではないでしょうか。私たちは、「どうぞ、私の心を開いてください」とイエス様に祈ってからみことばを読むことが出来たらいいですね。

 イエス様は、弟子たちに「『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活し、その名によって罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝得られる』。あなた方はこれらのことの証人である。」と言われます。このことは、弟子たちだけではなく私たちへの【使命】と言ってもいいででしょう。私たちは、イエス様が受難を経て復活されたことだけではなく、罪の赦しへ導く悔い改めが全世界に広まることの【証人】にならなければならないのです。私たちが【証人】になるためには、みことばを通してイエス様が私たちに示されたことを悟ることが必要なのではないでしょうか。もちろん、このことは、私たちの力だけではできることではありませんので、イエス様に心を開いていただく必要があります。

 イエス様は、「わたしは、わたしの父が約束されたものをあなた方に送る」と言われ【聖霊】を送られることを約束された後、「いと高き所からの力を身に帯びるまでは、都に留まっていなさい」と言われます。私たちは、イエス様からの【使命】をいただいた嬉しさのあまり、みことばを伝えることに夢中になってしまいます。しかし、イエス様は、聖霊の力が【身に帯びる】前にみことばを伝えてしまうと、私の能力や知識に頼ってしまう危険性があることを指摘されているのではないでしょうか。

 イエス様は、弟子たちをベタニアの近くまで連れて行かれ、両手を上げて彼らを祝福され、そして、祝福を授けながら彼らから離れ、天へと上げられて行かれます。同じ、ルカが書いた使徒言行録の箇所では「イエスは使徒たちの見ているうちに上げられた。一群(ひとむら)の雲がイエスを包んで、見えなくした」(使徒言行録1・9)と昇天の様子を書いています。私たちが【昇天】を思う時、天にあげられる、と思いがちですが、みことばで【雲】は、神聖な所、神の場所とされています。ですから、イエス様の【昇天】は、おん父の所に戻られたと言ってもいいのではないでしょうか。

 「主の昇天」は、イエス様が天に上げられて私たちから見えなくなってしまう所に行かれるのではなく、おん父とともに、私たちの身近な存在として関わってくださることを祝う祝日と言ってもいいのではないでしょうか。私たちは、身近におられるイエス様を感じ、聖霊に満たされて日々みことばを宣べ伝えることが出来たらいいですね。

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井手口満修道士

聖パウロ修道会。修道士。 1963年長崎に生まれ、福岡で成長する。 1977年4月4日、聖パウロ修道会に入会。 1984年3月19日、初誓願宣立。 1990年3月19日、終生誓願宣立。 現在、東京・四谷のサンパウロ本店で書籍・聖品の販売促進のかたわら、修道会では「召命担当」、「広報担当」などの使徒職に従事する。 著書『みことばの「種」を探して―御父のいつくしみにふれる―』。

  1. 小さな捧げ物という種 年間第17主日(ヨハネ6・1〜15)

  2. 休むという種 年間第16主日(6・30〜34)

  3. 宣教に出かけるという種 年間第15主日(マルコ6・7〜13)

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